第二章 静かな変化
マルクスの言葉は、リディアの中で静かに発酵し続けた。
腹が立つというより、すとんと何かが腑に落ちた感覚があった。ああ、やはりそういうことだったのか、と。むしろ長い間気づかずにいた自分の鈍さに、軽い呆れすら覚えた。
その週、リディアは以前より注意深くマルクスを観察した。三年間の付き合いを、感情を抜きにして眺めてみると、見えてくるものが違った。
彼はリディアの意見を聞くとき、手元の書類に視線を落としたまま、うなずく。「そうだな」「いいと思うよ」と短く返す。では彼自身はどう思うのかと問い返すと、少し考えてから「リディアの言う通りにしよう」と言う。最初はそれを信頼の証だと思っていた。今は違って見える。彼は何も考えていない。
先月の夜会で、マルクスの仕事上の功績が話題になった。商業区への投資を成功させた実業家として、議員のひとりが彼を持ち上げた。マルクスは笑顔で受け取り、「まあ、少し工夫をしましてね」と言った。工夫をしたのは自分ではない、とリディアは思ったが、口には出なかった。出す場所ではなかった。ただ、グラスを持つ手が少し強くなった。あるいは、「リディアに任せる、という工夫をした」という意味であったのなら、随分と意地が悪い答え方だと思った。
彼が自分の意見を持っていないわけではないだろう。社交の場では巧みに話を回し、人を笑わせ、場の空気を読むことに長けている。しかしそれは人心掌握の技術であって、数字や文書を扱う能力とは別物だ。マルクスはそこを、リディアで補っていた。補われていることを、おそらく恥とも不安とも思っていなかった。当然の資源として扱っていた。
婚約者として出席した先週の夜会でも、マルクスはリディアを連れ歩いたが、会話の中に彼女を入れなかった。紹介されるとき、「私の婚約者のリディア嬢です」とだけ言われ、それきりだ。同席した貴族たちはリディアを、飾り物として見るような目で眺め、すぐに視線を外した。
飾り物。
その言葉が頭に浮かんだとき、リディアはふと苦笑した。飾り物にしては、ずいぶんよく働く飾り物だ。
実家での扱いも、改めて整理してみると似たようなものだった。父はリディアを頼りにしてはいるが、それはあくまで道具としての信頼であり、娘としての愛情とは微妙にずれている。先月、領地の税収報告書を仕上げたとき、父は「ご苦労だった」と言った後、「ところでセリーナの縁談の件だが」と続けた。リディアが仕上げた仕事は、次の話題への踏み台でしかない。
母はリディアの存在をほぼ空気として扱う。悪意があるわけではない。ただ、リディアが部屋に入っても出ていっても、母の関心がそちらに向くことがなかった。社交的で明るいセリーナや、才能豊かなエレナの方が、母の目には映りやすいらしかった。リディアが食事の席で何か言っても、母の視線はセリーナかエレナに向いていることが多かった。
ある日の夕食後、リディアは父の書斎を訪ねた。用件は来月の商会交渉の件だったが、その前に一つ聞いてみようと思っていた。
「お父様、私が婚約を解消したいと申し出たら、どうなりますか」
父は眼鏡の上からリディアを見て、少し間を置いた。
「レイン家との関係が、難しくなるだろうな」
「私の意向は、考慮されますか」
「……おまえにはマルクス殿がいい縁だと思っているが」
答えになっていない。リディアはそれ以上聞かなかった。ただ、「わかりました」と言って書斎を出た。
廊下を歩きながら、彼女は静かに考えた。自分にとっての選択肢は何か。このまま婚約者として使われ続け、やがてマルクスに捨てられるか、あるいはもっと良い条件の相手が見つかるまでの繋ぎとして使われ続けるか。それとも、自分から動くか。
三つ目の選択肢には、恐れがある。だが、最初の二つには未来がない。恐れのある道と、未来のない道。どちらを選ぶかは、実はとっくに決まっていた。
リディアは廊下の窓の前で一瞬立ち止まった。秋の夜の庭が、月明かりの中に静まっている。この屋敷で育って、この屋敷に仕える人間として七年を過ごした。嫌いではなかった。ただ、ここは自分の場所ではなかった。そのことに、今夜ようやく、はっきりと向き合えた気がした。
部屋に戻ったリディアは、小さな帳面を取り出した。収支を書き込む癖がついた帳面だが、今日書いたのは数字ではなかった。
自分が持っているもの。自分にできること。必要なもの。
一項目ずつ、丁寧に書き出した。書き終えると、それはとても具体的な計画の素描に見えた。




