エピローグ 翌春
桜に似た花が咲く季節に、リディアは新しい部屋へ引っ越した。
第三区の細い路地から、商業区と住宅区の境目にある落ち着いた通りへ。前の部屋より広く、窓からは小さな広場が見える。花壇があって、今の季節は白い花が咲いている。
エイドリアンが手伝いに来てくれた日、彼は重い本の箱を三つ運んでから、「本が多い」と言った。
「仕事の本ばかりです」とリディアは答えた。
「それはわかっています」と彼は言って、棚の配置を確認してから書類の箱を積み始めた。文句を言っているわけではない。ただ観察したということだ。
二人は仕事のパートナーでもあった。
財務省の商業記録改革に、クラリスの商会を通じてリディアが実務協力者として関与するようになったのは、冬のことだ。エイドリアンの推薦があったと後で知ったが、本人は一言も言わなかった。正式な依頼書が商会に届いて初めて、リディアはその事実を知った。
「なぜ事前に教えてくれなかったんですか?」と聞くと、
「実績で判断してほしかったから」と答えが返ってきた。
そういう人だ、と思った。余計なことをしない。しかし必要なことは、静かにしている。それがリディアには、とても合っていた。
引っ越しの手伝いを終えて、二人で簡単な食事をした。近所に新しく開いた食堂で、料理はまだ慣れていない感じがあったが、素材は良かった。
「この界隈は好きですか」とエイドリアンが聞いた。
「どうしてそう思われたのですか?」
「新しい部屋を選んだのはあなたです。理由があると思って」
「そうですね...窓から花壇が見えるので」とリディアは答えた。
エイドリアンは少し考えてから、「なるほど」と言った。
納得してくれた、とリディアは思った。笑いもせず、意外そうにもせず、ただ受け取ってくれた。それが心地よかった。
食事の後、広場を歩いた。白い花が夕暮れの中でぼんやり光っていた。
「一つ聞いていいですか」とリディアは言った。
「どうぞ」
「五年前、帳簿を見て私のことを覚えていたと言っていましたが、その後、私が伯爵家にいる間は何も言わなかった。なぜですか」
エイドリアンはしばらく黙った。
「婚約者がいると知っていたから。それと」
少し間があった。
「あの書類の仕事が、評価されている様子がなかった。言及する機会があれば言いたかったが、監査の場でそれを言うのは不適切だった」
リディアは歩きながら、そのことを考えた。
見ていてくれた人間がいた。ただ、声をかけられる機会がなかった。そういうことだ。世界は不親切ではあっても、不公平ばかりでもなかったのかもしれない。見ていてくれる目は、ちゃんとあった。自分が気づいていなかっただけで。
「今は言えます」とエイドリアンが続けた。
「何を」
「あなたの仕事を、ずっと評価しています」
リディアは少し笑った。声に出して、少し。
「ありがとうございます」
エイドリアンも、隣で少し笑った。それだけで広場が、もう少し明るくなった気がした。
花壇の白い花の前で立ち止まって、リディアは空を見上げた。春の空は高く、澄んでいた。
七年間、誰かのために積み重ねてきたものが、今は自分のものになっている。数字を読む目も、文書を組み立てる力も、交渉の本質を見抜く感覚も。それを正当に見てくれる仕事があり、正当に見てくれる人がそばにいる。
誰かのお飾りだった日々は終わった。
エイドリアンの手が、静かにリディアの手に触れた。リディアは握り返した。花壇の白い花が、風に揺れた。
少し先に、小さな噴水のある広場があった。夕暮れの光がそこに差し込んでいる。二人はそちらへ向かって歩いた。
エイドリアンが言った。
「来年、財務省の施策の実務委員会が立ち上がる予定です。委員の一人として、あなたを推薦しようと思っています」
「……また、事後報告ですか」
「今回は事前に言っています」
リディアは少し笑った。確かにそうだ。
「それで」とエイドリアンは続けた。「委員会の仕事は、おそらく一年以上かかります。その間、仕事以外の時間も共に過ごせたら、と思っています」
「仕事以外の、というのはつまり」
「プライベートで、という意味です。わかりにくかったですか」
「いいえ」とリディアは言った。「よくわかりました」
噴水の傍で立ち止まって、水面を見た。夕空の橙が映っている。
一年前の自分が、この場所に立つことを想像できただろうか。屋敷の小さな机で夜明け前から帳簿を広げていた自分に、一年後こうなると話しても、信じなかっただろう。
しかし今、ここにある。自分の仕事と、自分の場所と、自分を正当に見てくれる人が。
「お受けします」とリディアは言った。「委員会も、それ以外の時間も」
エイドリアンはうなずいた。いつもと同じ短い仕草だが、その目が、確かに喜んでいた。
二人は並んで噴水を眺めた。風が吹いて、水面が揺れた。春の匂いがする。
誰かのお飾りだった日々は、遠くなった。今は、自分の名前で生きている。リディア・ハーウィンとして、ここに立っている。




