第94話 陽だまりの内側
王都へ入って五日目の朝、セレスティーヌは住居棟の奥で、自分の部屋の窓を開けた。削ったばかりの窓枠には木の香りが残り、朝日に照らされた床へ、通りを行く荷車の音が入ってくる。向かいのギルドでは、まだ大工が屋根へ上がっていたが、その下には荷袋を抱えた人々が集まり、職員に呼ばれるのを待っていた。
「姉さん、そっちを持ってくれ」
振り返ると、クリストフが寝具を入れた箱を抱えていた。端へ手を添えて寝台の脇へ下ろすと、弟は蓋を外し、畳まれた毛布を取り出した。
「あなたの分も、届きましたか」
「ああ。もう隣に入れた。今夜から、ここで寝られるぞ」
「楽しみにしておりました」
セレスティーヌが毛布を受け取ると、クリストフも笑って箱を脇へ寄せた。二人で寝台へ広げている間にも、廊下を荷物が運ばれ、戸口を通るたびに、どの部屋へ入れるのかを尋ねる声がした。
セレスティーヌは整えた毛布へ手を置き、窓の向こうで待つ人々を見た。この部屋と同じ寝台を、ほかの部屋にも用意している。荷物を下ろして、靴を脱ぎ、横になる。そのときにはもう、明日どこで眠るかを心配せずに済むようにしたかった。
廊下から呼ばれたクリストフが出ていくと、セレスティーヌは着替えの箱を机の下へ収めた。屋敷より小さな部屋だったが、隣へ声をかければ弟がいる。今夜は仕事のあと、廊下で顔を合わせてから、それぞれの戸へ戻るのだろう。
戻ってきたクリストフへ、セレスティーヌは笑いかけた。しかし、弟は箱を運んできたときとは違う顔で、入口に立っていた。
「入る予定だった連中から、話が来てる。魔法使いを、ここへ入れないでくれって。向かいのギルドの裏からも、出してほしいそうだ」
「……あちらの方々にも、入っていただきます」
「ああ。俺もそう言った。けど、あいつらがいるなら安心して眠れないって、まだ入口で待ってる」
窓の外では、ギルドの柵から寝具を抱えた人々が出てきていた。先に渡ってきた荷物は住居棟の前で止まり、職員が通りを空けるよう声をかけている。
「俺が断る。姉さんは、ここにいていい」
「わたくしのお話を、直接聞いていただきましょう」
「恨まれるぞ。せっかく、ここまで用意したのに」
戸口を空けようとしない弟のそばへ進むと、彼は廊下を振り返ってから声を落とした。
「俺が決めたことにしておけばいいだろ。姉さんには、ここで喜んでいてほしかったんだ」
朝、一緒に広げた毛布は、もう寝台へ収まっていた。セレスティーヌは弟の上着に残った木屑を払い、その腕へ手を添えた。
「あなたが決めたことには、なさらないでください。わたくしも、お答えします」
クリストフは何か言いかけたが、添えられた手を取ると、廊下へ身体をずらした。セレスティーヌも隣へ並び、荷物の間を抜けて住居棟の入口へ向かった。
* * *
入口の卓には、部屋ごとの鍵が並べられていた。職員が立ち上がると、卓を囲んでいた人々も話をやめ、セレスティーヌへ顔を向けた。
「お待たせいたしました。こちらでの暮らしについて、わたくしからお伝えします」
卓のそばへ立つと、通りの向こうでも足が止まった。セレスティーヌは、寝具を抱えている人々にも届くように声を出した。
「魔法を使える方にも、ここで暮らしていただきます。そのことで、ほかの方を追い出すことは認めません」
「あの舟を見てないから、そんなことが言えるんだ」
卓の向こうから返った声に、クリストフがこちらへ身体を寄せた。セレスティーヌは弟の腕へ触れ、言葉を続けようとしたが、相手が抱え直した荷袋の泥に気づいた。
王都まで水を進ませると決めた自分が、その怯えを責めることはできなかった。あの舟から逃れてきた人々へ、何を見たかと尋ねるつもりもない。
「ここで、誰かに魔法を向けることは許しません。魔法を使えるというだけで、家を追われることもないようにします」
荷袋を抱えた手は緩まなかった。セレスティーヌは返事を待ったが、近くにいた人々も、鍵へ手を伸ばそうとはしなかった。
「お入りになった方には、お部屋と食事を用意します。働けないときも、暮らしに必要なお金はこちらからお出しします。お仕事については、クリストフのところへお越しください。どなたに何をお願いするかも、こちらで決めます」
卓の端で、受け取った鍵を見ていた職人が顔を上げた。住居棟へ材木を運んでいた作業着には、袖を払った跡が白く残っていた。
「一緒に住むのは構わないんです。でも、仕事は自分で探しますよ。お金まで出していただかなくても、それで食べていけますから」
「わたくしがこれから治める国では、お住まいも、お仕事も、こちらで用意します。お部屋だけをお受けになって、働く先はご自分で決める、という暮らしにはいたしません」
「今まで、自分で決めてきたんですがね」
「ご希望は、クリストフが伺います。ですが、この国で暮らす以上、どのお仕事を引き受けていただくかは、こちらで決めます」
職人は、鍵を握ったままクリストフを見た。
「この国で暮らすなら、セレスティーヌ様の決めたとおりにしてもらう」
弟の声を聞くと、職人は鍵を卓へ戻した。
「だったら、俺はやめておきます」
セレスティーヌは鍵を受け取り、その冷たさを掌に残したまま職人を見た。
この方にも、ここで眠っていただくつもりでしたのに。
「承知しました。これまで働いていただいた分は、お支払いします」
「こっちは、部屋には入らないが、食事だけはもらえるんだろうな」
先ほどの荷袋を抱えた人へ、セレスティーヌは顔を戻した。入口を塞がないよう、クリストフが卓を脇へ寄せていた。
「この国での暮らしをお受けにならず、ほかの土地へ行かれる方に、食事や生活を支えるお金をお出しすることはありません」
返事の代わりに、別の鍵が卓へ戻された。セレスティーヌはそれも受け取り、クリストフへ、精算を済ませるよう頼んだ。
住居棟の前から荷物が持ち上げられると、抱えた人々が通りへ出ていった。セレスティーヌも卓を離れ、戸口でその背中を見送った。呼び止めれば、まだ声は届く。けれど、部屋へ迎えるために言葉を変えるつもりはなかった。
隣へ戻ってきたクリストフが、掌に残る鍵へ手を添えた。
「姉さん」
「……お待ちの方々を、お願いします」
弟が鍵を受け取って通りへ出ると、ギルドの前にいた人々が寝具を抱えて渡ってきた。セレスティーヌは入口を空け、荷袋が戸の縁へ引っ掛からないよう支えながら、一行を迎えた。
* * *
夕方、住居棟へ戻ると、廊下には食事を運ぶ人々が行き交っていた。朝には入口に並べられていた荷物が部屋へ収まり、開いた戸の奥で、窓辺に掛けられた洗い布が揺れている。
セレスティーヌは、昼に空いた部屋の前で足を緩めた。入口には靴が揃えて置かれ、寝台へ広げられた毛布の端に、脱いだ上着が畳まれていた。食事を持って戻ってきた人へ道を譲ると、椀から立つ湯気が、通り過ぎた頬を温めた。
「姉さん。食事、もう部屋へ運んだぞ」
奥の戸口から顔を出したクリストフへ頷きかけたが、隣の部屋から、借りた椀をどこへ戻せばよいか尋ねる声がした。廊下の端で職員が応じると、こちらを通って椀を返しに行く足音が続いた。
今夜は、あの天幕へ戻らずに済む。荷物を置いたまま戸を閉じて、明日の朝まで休んでいただける。
セレスティーヌは、空いた廊下を奥まで眺めた。朝、箱を運んだときには木と布の匂いしかなかった場所に、豆の煮込みの匂いが満ちている。窓の外で大工の槌音が途切れても、廊下には人の声が残っていた。
「姉さん、冷めるぞ」
そばへ来ていた弟に呼ばれ、セレスティーヌはようやく顔を戻した。
「もう少しだけ、ここにいさせてください」
クリストフは廊下を見渡すと、そのまま隣へ残った。戸の向こうで笑い声が上がり、セレスティーヌも口元を緩めた。机の下へ入れた自分の箱も、この方たちの荷物と同じ屋根の下にある。
弟の袖を引くと、クリストフが顔を寄せた。
「明日の朝も、ここで皆さんをお迎えできるのですね」
笑いを含んだ声になってしまった。弟が握ってくれた手を包み返しながら、セレスティーヌは、廊下に落ちる夕日の中で、もうしばらく人々の声を聞いていた。




