対峙
時間が止まったみたいにずっと雨の音だけが響く。熱が、溶けるみたいな熱だけが、なにもかもを麻痺させる。いつ離れたらいいかわからなかった。ずっとこうしていたいぐらいで、鬱屈とした空気も何もかもが記憶に刻まれていく。この記憶だけは、俺達二人だけのものだ。この先にもあとにも――この瞬間は。俺達だけの……。
一瞬で不安も恐怖も全部溶けて消えていく。……ノーチェは静かに目を開けた。真っ白だった頭に思考が戻ってきて一歩距離を取る。彼女の華奢な指が俺の頬を撫でた。
「その、ありがとう……っス」
「……照れるから、面と向かってお礼しないでくれ。しかも……勝手に俺が、先走っただけだし……ごめん」
(し、……してしまった。勢いで。キスを――。けど違う。やましい気持ちはなかった。そういう想いでしたんじゃなくて、ああでも……嫌われたかな。嫌だな。……こんなこと考えてる場合じゃないのに。こうやって自分のことばかり――最低だ)
恥ずかしさと罪悪感が込み上げて口籠る。ノーチェはじいっと俺の顔を睨んで、不満そうに頬を膨らませて、じれったそうに顔を赤くしながら俺の額に手を伸ばす。
――デコピン。思いのほか痛い一発にのけぞる。羞恥も思考も全てが吹っ飛んだ。再び頭のなかが真っ白になる。思わず目を見開いて彼女を睨んだ。
「な、なにすんだよ……。いや、意外と痛いな……!」
「馬鹿にはいい仕打ちっスよ。いいっすか!? 謝るくらいならするなっすよ! その、驚いたっすけど、胸、バクバクするっすけど、それでも不安みたいなのが、なくなったし、……嬉しかったし。謝るなって意味っすよ? …………だって、わたしいやだっていってないじゃないすか」
振り絞るみたいな小さな声。グッと胸のうちに衝動が駆け巡る。抱きしめたくなるのを必死で堪えた。ゴホンと咳払い。岩壁に寄り添って腰を下ろした。ノーチェが隣に座る。黒い尾が脛を撫でた。
「それで……私はどうやって死んじゃったんすか? 知ってればきっとなにか……手はあるかもっす。スースー早く言えっすよ」
「そのスはさすがにあざといぞ……」
ノーチェなりに気を紛らわそうとしてくれてるらしい。いつもの彼女と比べて不器用というか、恥ずかしがりながら言ってるような。照れ臭くて笑い返して、それから一呼吸置いた。
死んだ俺の記憶を思い出そうとすると万力に挟まれたみたいに頭が軋むから、痛みに耐えるために息を整える。ゆっくりと吐いて――フラッシュバックを起こす。
ビキリと硝子に亀裂が走るみたいな音がした。違う。幻聴だ。した気がするだけだ。あああああ、脳内を無数のミミズが蠢くみたいに不快で、神経を直接鷲掴みするみたいな激痛が巡る。
「ッがぁー……!! ッフー……!」
呼吸を荒くして頭を抱える。痛みの先にある記憶を覗こうと、過去にあった未来を思い出そうとする。
――雨が降っていた。濃厚な熱帯雨林の奥深く。複雑に絡み合う木の根。岩を覆う苔。切り立った崖の下。一面を覆う蔦。動く植物。ノーチェの傷は……血に濡れた腹部はどんな傷だった?
思い出そうとすると嗅覚の奥を鉄と土の臭いが突き刺した。吐きそうになる。ああ、でも覚えている。裂傷だ。皮膚が貫かれて、手で押さえてもどうにもならない致命傷が、あの巨大な蟲が――返しのついた鎌が樹木すら斬り倒して……。
思い出そうとして咄嗟に外に出る。黒く分厚い雲と、一層影を差す林冠。水没した地面を打ち付ける雨。足元を漂う霧に水飛沫が混じる。
「……蟷螂」
刺のついた二本の前肢。鎌状になっていて、長細いけど怪物じみた巨躯。爛々と輝く横に飛び出した眼球。真っ暗な密林のなかだったが、ぼんやりと覚えていた特徴だった。
「辻斬蟷螂っすすか?」
雨に打たれることも気にせずにノーチェも外に出た。俺の手を掴んで尋ねる。けどモンスターの名前を言われたって俺にはそれがどんなやつかはわからない。
「詳しい名前とかは分からない。……巨大な蟷螂みたいな、モンスターだったと思う。けど、色とかは暗かったし分からない。長細かったのは覚えてる」
断言するとノーチェは云々と頷いた。雨に打たれ続けるわけにもいかなくて、すぐに屋根の下に戻る。火のそばで座り込んだ。――熟考。
沈黙するだけで雨の音が耳を覆う。自然に呑み込まれるみたいで落ち着かない。火喰蜥蜴が火のなかで小さな寝息を立てて丸くなっている。
「何か……対策はないのか? あのフグのモンスターみたいに火を怖がるとか。近くにいるとバチンって音がするみたいな」
「虫に痛覚も恐怖もないっすよ。キラーマンティスの武器は前肢の鎌とその巨躯っす。でかいせいで煙でくたばるにしたって時間がかかる。質量が凶器的。縄張りの境界線にある樹木は全部斬り倒す習性があるっすけど、そんなの見た記憶ないから多分、今が繁殖期なんすかね。普通時より狂暴。食欲旺盛。しかも飛び回るっす」
ノーチェはさっきまでのことが嘘みたいに悠々と俺の説明する。……怖くはないのだろうか。いや、そんなわけがない。彼女の本心を目の前で見たばかりじゃないか。恐怖を押し殺してるだけだ。
「……何か弱点みたいのはないのか? 倒す方法とか、こうすれば近寄られないとか」
「図体がでかくて動き自体は特別早いわけじゃないっす。あと泳げない。だから周囲一帯が池みたいになってるこの場所に好んで来るとは思えないんすよね」
この場所から出なければ襲われないってことだろうか? ……でもずっと引き篭もるのは現実的じゃない。救助が来るわけでもないし、拠点を出てすぐ目の前にある雨溜まりには魚がいるけれど、ずっとそれだけを食べるわけにはいかない。偏食は死を招く。ノーチェが最初に言ってたことだ。
「もし対峙しちゃったらヨースケの魔法しか頼れないっす。【岩槍】は撃てるコンディションになってるっすか?」
――魔法は使うな。緊急時だけにしろ。あれはおまえの唯一の武器だ。昼にそんな警鐘が頭に響いたことを思い出した。その緊急時が次に来る危機なのだろうか。
「魔法は……一応撃てる。けど【岩槍】は一発が限界だと思う。質量がある所為かわからないけど、撃つと歩くのすらつらい」
「一発撃てれば充分っす。あいつらは単独行動しかしないっす。ナイフは無意味。甲殻が異常に硬いっす。肢も胴も頑丈で、だから質量で押し潰すしかないっすよ」
チカチカと脳内に残る掠れた記憶を辿ろうとする。……あれはそんなに頑丈で鈍間なモンスターだったか? ああ、駄目だ。思い出せない。これ以上振り返ろうとしたら俺と前の俺がごちゃ混ぜになる。頭が――おかしくなりそうだ。
「鎌に捕まったら肉に刃が食い込んで押さえつけられて、生きたま顎で食いちぎられて貪られるっすよ。だから、一発勝負っす」
(……顎? 牙みたいなものか)
なぜか脳裏に違和感が過る。何かが食い違っているような気がしてならない。不安になってるだけか? 確かに、怖い。全部が俺に賭けられている。
「怖いっすよね。私もっす」
腕にしがみ付いて悪戯っぽく笑ってくる。肌が触れているだけでも恐怖心はマシになってくるのだから不思議だ。
「怖いっすけど、魔法を使うには頭のなかの想像力で魔力を動かすから……冷静じゃないといけないわけっすね。あとは食べ物とかからちょーっとずつ魔力を体に蓄積させることっす。ほら、せっかく雨が降ってるんすよ。冷たい水でも一杯飲むっす」
ノーチェはそそくさと竹の皿を手に取ると屋根から滝みたいに降り落ちる雨水を注いでいく。水飛沫が彼女の頬を撫でる。
――デジャヴ。静電気が弾けるみたいに霞掛かっていた記憶の断片が甦る。ノーチェがこっちを向いて皿を手渡そうとして――。そうだ。俺はこのとき掴めなかったんだ。思い出した思い出した思い出した思い出した! ノーチェの傷は刃の切り傷でも牙が食い込んだものでもない!!
「違う。違う!! 蟷螂じゃない!」
咄嗟に叫び声をあげてノーチェの手を掴んだ。岸に引き戻そうと体を寄せる。次の刹那、樹木なんて斬れそうにない刺だらけの鎌が水面から這い出る。
「痛ッぅあ!?」
刺がノーチェの脚を捉えると同時に肉に突き刺さる。転倒。そのまま水中に引きずり込もうと力が掛かる。雨に濡れた岩肌が脚に力を籠めることも許さない。ずるずると俺の身体も雨溜まりへ引き寄せられていく。
「ヨースケ、離すっス……!」
「逆なら離すか!? 絶対――!」
言葉が途切れる。視界が宙を舞った。首が揺さぶられて意識が飛びそうになる。何が起きたか理解できないまま全身が叩きつけられた。飛沫をあげて体が沈む。……水のなかに引きずり込まれた。気道に水が入る。口から空気が溢れ出る。
水中は酷く冷えていて体が強張る。陽の差さない黒く透き通った水中は悪寒がするぐらい視界が通っていた。ノーチェの脚を掴む長細い鎌状の前肢。枯葉色の甲殻。横に飛び出した眼球。背部に伸びる管。彼女を殺したストロー状の口。
カマキリとは似て非なるモンスターだった。




