笑えない雨のなかで
(言うべきか? なんて? ノーチェは今日死ぬかもしれないって? ……ダメだ。そんなこと言ったら――ノーチェも俺と同じで死んだことがあるって言ってるのと変わらない。彼女に同じ想いはさせたくない。自分が自分かどうかわからなくなるのは苦しくて、……嫌なことだ)
ぐるぐると思考が回っているうちにノーチェの尾が手に巻き付く。彼女は悪戯っぽく微笑んで、そのまま俺の手を引っ張った。流れるような足取りで岩壁に寄り添い体育座り。ぽんぽんと隣に手を置いて、座れと催促される。
脳裏に過る最悪の光景が離れないのに。ノーチェの隣に座ると心臓が強く跳ねた。指先まで緊張で強張って、けどそれ以上に罪悪感ばかりが喉奥に渦巻く。息をするたびに気道に湿気が籠る。
(こんなことしてる場合じゃない。何もしなかったらノーチェが死ぬかもしれないのに)
なのに言い出せない。わかっている。言うべきだ。けど自分の死体を見た時のことを思い出すと、喉元で声が留まる。ノーチェが不安で仕方なくて、強く脈打つ心臓がなおのこと息を詰まらせる。
外から差していた日の光が完全に消えた。降り始めた雨は一瞬で、滝のように水面を打ち付けて水しぶきが跳ねている。濃霧と分厚く低い雲が空を覆っていた。相変わらず透き通るような鳥の囀りと、叫び声みたいな鳥の鳴き声だけは聞こえた。
「……教えてほしいっす。私は見えないから、ヨースケが苦しいことしかわからないから。けど未来に何か大変なことが起きるなら、知ってた方が力になれるっす。そしたらまた、二人で乗り越える――ッスよ♪」
迫った声で俺の手を握る。励ますようにぎゅっと力強く。花が咲いたみたいに笑って。――フラッシュバックする。開いたまま閉じる事なく光の失せた蒼い瞳。眼球に蝿が止まる。華奢な手を伝う血に溺れる蟻の群れ。
「うッぇぇ……がッほっ、うぇえ――ぅ」
渦巻いていたものが不意に吐き気に変わって嗚咽した。――俺は俺の死因も思い出した。手の内に残る柄の感触。腹部に触れたナイフの煌めき。……自殺したんだ。死んだらそこで終わりなのに。そこで起きた事実が変わるわけではないのに。
「言えなっ……い。ごめん。ノーチェを信じてないわけじゃなくて。ただ……俺が耐えられなくて」
胃液混じりの唾液を拭った。言えないと口にすると思考がスッと冷めていく。それなのに胸を締め付けるような感覚だけは治らない。逃げるみたいに外に顔を向けて――頭が軋む。
密林は白昼の闇に染まっていた。木洩れ日もなにもかもがなくなると夜みたいに真っ黒になって、雨溜まりの水面だけが白くうっすらと霧を纏う。
「……生きるためでも言えないっすか? 私が言ったこと、もう忘れちゃったんすか?」
言えないとも言うとも言えなかった。何か言葉を取り繕おうにも頭が真っ白になって何も浮かばない。開いた口から生ぬるい空気が入り込む。また噎せ返った。
「――――気が向いたらでいいっすよ。私は作業するからヨースケはそこでしばらく休めばいいっす」
ノーチェは蹴るように立ち上がろうとして、直後に砕けるような光線が落下した。遅れて轟音が地面を鳴らす。雷だ。それから立て続けに何度も光の一閃が落ちて炸裂する。
ビクリと彼女は肩を竦ませた。苦虫を噛み潰したみたいな表情。けどすぐに顔を背けて今度こそ立ち上がる。
(手を離したら二度と会えなくなる。今日だ。夜かもわからない。真っ暗で、捜しても見つけられない。ノーチェから離れたらダメだ)
頭のなかで記憶が強迫する。血の気が引いていく。真っ暗な密林のなかで、彼女の名前を呼び続けて、見つけたときには全て手遅れだった記憶が。全身を確かに強張らせる。蒼白させる。
無意識のうちに彼女の手を掴んだ。ノーチェの翼が濁った空気を小さく仰ぐ。彼女は真面目腐った顔で振り返る。静寂に包まれたみたいだった。実際は打ち付ける雨音が反響していて、自分の言葉も聞き取れないくらい騒々しいのに。
「…………ごめん」
「なんで謝るんすか」
「話したら……嫌な想いさせる、だろうから――なのに、言いたくて。言わないと頭が……痛い。嫌だ。嫌だ。……離れたくない」
握る手に指が交わる。ノーチェは深いため息をついて、呆れるような眼差しを向けた。尾だけが機敏に揺れ動いている。
「甘えても、頼ってくれてもいいって言ったじゃないすか。それにヨースケ弱っちいから黙ってても耐えられないっす。――――私はいつどうやって死んだんすか?」
――落雷。視界が数度真っ白にフラッシュして耳鳴りがするぐらいけたたましい衝撃音が貫く。一瞬、心臓がとまりそうだった。……雷の所為じゃない。
「なッ……!? ノーチェも見えてるのか?」
「カマかけただけっす。ヨースケが言いたがらない理由を考えて、自信過剰かもしれないっすけど、これが理由だったら許しちゃえるなっていうのを言ってみただけっす」
ぷいとそっぽを向いて言葉が縮んでいく。キビキビと揺れ動く尾が脚に絡みついた。照れくさそうに彼女は笑う。それがこそばゆくて、気持ちが緩みそうになるのを俺は咄嗟に律した。
「そんな笑い事じゃない」
「それでも笑っていたいんすよ。笑って、生きてたい……っス。二人で。……欲を言えば、ヨースケの世界にでも行ってみたいっすけどね。言ってたじゃないっすか。子供でも女の人でも肌の色も関係なく遊べる場所があるって」
いつにもないことを言ってノーチェは自嘲するみたいに笑って、ぺたりと再び座り込んだ。声は掠れていて、雨音に掻き消えそうなくらい小さかった。
「……遊園地か?」
「そう、それっす。そこでヨースケのいうポップなんちゃかを食べて、泣いちゃうぐらい叫んじゃうジェット……コースターだったっすか。に乗って――それで、どうしようっすかね」
震える声。ノーチェの真っ白な髪が喉元に触れる。心臓は高鳴っていたけれど、恥ずかしいだとか、照れくさいだとか。なぜかそういう想いは消えていた。
「帰りにラーメンでも食べたいな。吐息が白くなるくらい寒い日で、指先まで冷えたときに。んで、駅の自販機でおしるこを買う」
「ヨースケの世界の食べ物だったらきっとなんだっておいしいっすね。ふへへ……ッ、えへ……」
引き攣った声が途切れる。沈黙すると雨の音だけが。ざぁざぁと。ノーチェの音を全部呑み込むみたいにかき消していく。
「怖い……すね。死にたくないっすもん。……っぅ」
「ノーチェ……」
「ッう……ぐン。死にたくない。死にたくない……私、嫌っす……。嫌っすよ……!」
ノーチェはぶんぶんと顔を横に振って、何度も嗚咽を呑み込もうとする。けどそれも耐えきれなくなって、吐露するみたいに彼女の笑顔は笑顔じゃなくなった。
「嫌だ。何も言えなくなるのも……ッぐ、ん。嬉しいとか、楽しいとか……なにも考えられなくなって、ずっと真っ暗で、一生、一生……! 考えたら、息がとまりそうで。怖くて。――私は」
頬を伝って流れ落ちた。ノーチェは逃げるように顔を俯かせる。止められなくなった涙を、嗚咽をこんなときまで必死に隠そうとする。
「ノーチェ」
彼女の名前を呼んだ。ゆっくりと潤んだ双眸が見上げる。俺は一歩歩み寄った。密着するぐらい。手を背に回す。暗闇に溶ける黒い両翼が強張って、けどすぐに力を緩めた。
薄黒い空。鳴り止まない雷雨。纏わりつく湿った空気。汗が滲んだ肌。細切れの呼気。柔らかな熱。
ノーチェの顔が目の前にある。全部がぼんやりするぐらい近くに。
……彼女はゆっくりと目を閉じた。薄く涙が伝う。手に落ちる。それで、頭が真っ白なまま彼女と向かい合った。手が体を寄せる。俺達は何も考えたくなくて、けど一緒にいたくて。それで――。
呼吸もできないままノーチェと唇を重ね合った。




