六、食えない相手
アダムは、果実の実る大樹の前に立った。
イビーの案内の元、森を歩き、ようやくその樹に辿り着いたのだ。
枝からは、ほんのりと紅く色づいた果実がいくつもぶら下がっている。あたりには甘い香りが充満していて頭がふらつきそうになる。
『アダム。私は皆を幸せにしたいです』
イビーはアダムの腕の中で囁く。
「君たちにとっての幸せって、何だい?」
『皆がずっと一緒だということです。それが幸せの形です』
確かに、物語のハッピーエンドはいつも『ずっと一緒に幸せに暮らしましたとさ』という言葉で締められる。
—— ずっと、一緒にいようね。
最近そんなセリフを聞いたような気がする。どこで誰が言っていたのか、頭がぼんやりして思い出せない。
人間をゾンビ化させるのも、イビーにとっては『幸せの形』なのだろう。ずっと一緒に、増え続ける。それが彼女達植物の目指すべき幸せなのだ。
地面に降り立ったイビーは、果実を一つもぎ取り、アダムに差し出した。
甘く、瑞々しい魅惑の果実。ひと口頬張れば、多幸感に包まれるだろう。
『アダムは薬草師。この果実は役立ちます』
「そうだね、イビー。僕は、君たちの役に立つ人間だろうね」
アダムは果実を受け取った。
そして。
そのまま地面に投げ捨てた。
「イビー。残念だ。君たちは欲をかきすぎた」
アダムはそう言うと、懐から二枚の葉を取り出した。
旅人の必需品。
どこでも火を起こせる、便利なアイテム。
イビーが金色の目を見開き、何かを叫びながらアダムに駆け寄る。
アダムはイビーを冷たく見据え、二枚の葉を擦り合わせた。そして火がともったその葉を、大樹に向かって放った。
イビーは絶叫した。
大樹に火がついた。
赤々と燃え上がる炎。
幹を舐めるように燃え広がり、そのまま枝へ、葉へ、果実へ、炎が伝っていく。
「僕は焦っていたんだ。ゾンビの数が増えれば増えるほど、君たちも増殖することになる。そうすると、他の植物が追いやられてしまう。それじゃ困るんだ」
アダムの顔が炎に照らされる。微笑んでいるようにも、怒っているようにも見える。
「なんとしてでも、君たちの繁殖を止めなくてはならない。だから、僕の事を『役立つ人間』だと思わせたかった。僕に心を開いてもらって、この大樹の場所を知る必要があったから」
イビーは身体をよじり、悲鳴をあげながら地面に転がった。
「ねぇ、イビー。僕は君たち植物の、その計り知れない力やたくましさを、尊敬してるんだよ。僕が薬草師になったのは、植物が大好きで、もっと植物の事を知りたいって思ったからなんだ」
誰も気がつかなかったのだ。イビーもトネリコも、吟遊詩人達すらも。
アダムが、既に別の種類の植物に寄生されている事に。
ずっと心に根を張っていた別の意思。
彼には、思考を操られている自覚はなかった。
しかし、彼は、その植物の栽培を行い、店に卸し、人々の間で流通させた。
花粉を運ぶ虫のように、彼はその植物の繁殖の手助けをしてきたのだ。
「君たちが増えすぎたら、勢力図が書き換えられてしまうだろう。現に、他の薬草が売れなくなってしまった。それでは困るんだ。繁殖力の強い雑草は、広がりすぎる前に、根絶やしにしないと。だから、ここで潰させてもらうよ」
その植物は気がついたのだ。
人間は役に立つ。人間を操るのが、山火事を起こすよりも早く確実だと。
「ねえ『森の悪魔』、君は確かに魅力的だった。でも、考えてみてよ。『悪魔』より『魔王』の方が格上だろう」
アダムは炎に背を向けた。
そして、森の出口に向かって歩いて行った。
『魔王』の葉の残りは、懐に大切に仕舞った。
大切な物は、ずっと一緒だ。
炎に包まれた大樹から、果実がぼとりと落ちた。
魔王が降りたった地は焼け野原になると言う。
イビーはもう動かない。
燃え盛る炎は、まだ、当分は勢いを失わないだろう。
『魔王』の縄張りを荒らした『悪魔』は、業火に焼かれ、燃え尽きるしかない運命なのだ。