五、歯が立たない状況
楽園に、大きな木が生えていた。
そこに実っていた果実は、決して食べてはいけないとされていた。
一匹の蛇が女を唆した。
女は男と共に、禁断の果実を口にしてしまう。
結果、二人は楽園を追放された。
それは誰の企みだったのか。
男を誘った女か。
女を唆した蛇か。
では蛇は誰に操られたのだろうか。
楽園に閉じ込められた木は、食べられたいと願わなかったか。もっと、食べられたい、増えたいと、そう思わなかっただろうか。
蛇を操り、人間に食べられた果実の思惑を、誰も知らない。
♢ ♢ ♢
アダムは、しっかりとイビーを抱き抱え、町の中を歩き進んだ。
町には、ゾンビがうろうろとしていたが、なぜか二人には近づいて来ない。
(まるで不思議な力に守られているみたいだ)
襲って来ないのを良いことに、しげしげとゾンビを観察してみた。
確か、話に聞くゾンビというのは、身体中が腐敗し、死臭が漂っているとの事だった。
目の前で徘徊しているゾンビ達は、うめき声をあげ、手を前に突き出し、首をぐらつかせている。けれど、「死体が動いている」という感じはしない。
吟遊詩人の男が言っていたように、支配さえ解ければ元に戻るかもしれない。
(いや、他人のことなんか知るものか。僕は、人間よりも植物を優先させるんだ)
アダムは心の中に根を張った声に、従う事に決めた。
自分の意志を放り出す爽快感。自分以外の意思に身を委ねる事の心地良さ。
(僕は、やるべき事をやるだけだ)
イビーの指し示す方に向かって、ただただ足を動かす。
そして、森の入り口までたどり着いた。
♢ ♢ ♢
アダムとイビーの二人は、見張りのカイエンに見つからないよう、裏口から出て行ったようだった。
それに気がついたのは、夜が明け、一同が起き出してきた後だった。
「ああ、イビー嘘だろう。なんで……」
トネリコが頭を抱えて呻く。
その様子は、まるで妻を若い男に取られた亭主のようだった。
「アダム……あいつ、ちくしょう! 何を考えていやがる」
「落ち着いてよ、おっさん」
「そうですよぅ。ひとまず深呼吸です」
ミミとユーリが二人がかりでトネリコを宥めている。
「確かに、どうしてアダムはイビーを連れて行ったんですかね。もう既にイビーに操られていたって事ですか」
カイエンの言葉に、吟遊詩人は曖昧に頷く。
「どうでしょう。彼がイビーに『役立つ人間だ』と判断されたのは間違いなさそうですが」
「役立つ?」
「例えば、トネリコさんは、果実を食べてもゾンビ化しませんでした。しかし、果実を人々に広め、ご自分で栽培までしている。イビーに都合の良く使われています。おそらく、思考を操られていたのではないでしょうか」
「馬鹿を言うな」
トネリコは、憤って手を振り回す。
「俺は、俺の意志で行動していたぞ。操られてなんかいない」
「花の蜜を吸う虫は、自分の意志で行動してると信じて疑わないでしょう。しかし、その虫を利用することで花は受粉し、子孫を残します」
吟遊詩人は、困ったような顔でトネリコを見つめた。
「あの果実の寄生の仕方は、二種類あるのではないでしょうか。一つは、身体を乗っ取り、繁殖の苗床にする。もう一つは、思考を乗っ取り、果実を拡散させる……」
「でも、でも俺は……!」
トネリコは反論しようとしたが、言葉が出てこず、がっくりと項垂れてしまった。
「アダムさんは、薬草師です。彼が他の町にあの果実を卸せば、人々のゾンビ化はもっと広がるでしょう。トネリコさんと同じで、彼は役立つと判断されたのです」
「えっと、つまり、アダムも思考を操られてるってこと?」
ミミの質問に、吟遊詩人は考え込む。
「もし、果実を食べていたら……そうかもしれませんが……」
「でも、外に出たら、ゾンビに襲われません?」
ユーリが首を傾げる。
「もしかしたら、イビーがいれば襲われないんじゃないか」
そう答えたのはカイエンだった。
「今まで、店にゾンビがやって来ないのが不思議だったが、イビーは奴らのボスみたいなもんだろ? だからここは襲われなかったのかもな」
「……ってことはですよ」
「……アダムがイビーを連れて行っちゃったっんだから」
ミミとユーリがゆっくりと顔を見合わせた時だった。
——ダンッ!
店のドアに何かが体当たりするような音がした。
「おいでなすった」
カイエンが構える。
ミミとユーリはゆっくりと後退りした。
「ひとまず、家具を集めて扉を塞ぎましょう」
吟遊詩人の言葉に、皆が静かに頷く。
店の外からは、うめき声がする。
その数がだんだんと増え、扉を叩く音も大きくなる。
扉を破られるのは、時間の問題だった。