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何かが砕ける音がした。
「っ」
打ち合うことをやめて、すぐに彼の人の場所を振り向く焦がれに気づき、なのに走り寄ろうとはしない恐れに気づく。
「参りましょうか?」
ガストが剣を下ろして尋ねるのに首を振る。
「よい……ルッカが居る」
「……本当に?」
静かにレダンを覗き込むようなガストの視線に苦笑した。
「俺に何が出来る」
「何でも」
「からかうな」
口調は軽いが、声音は暗い。
「何もできない。あんな風に怯えて1人で耐え忍ぶ彼女の側に居てもやれない」
「…この世ならぬ力ですからねえ」
「…ルシュカで巫女をひと噛みで絶命させた。あの光景が脳裏から離れないんだ」
レダンは内側から湧き出る冷や汗に拳を握る。
「俺を、ならいい、シャルンのためなら本望だ。だが、万が一、俺の接近を拒むシャルンが、水龍の不興を買って、彼女自身が飲み込まれたら、悔いても悔い切れない」
嗤え、ガスト。
「俺はこんなに肝っ玉の小さい男だったか?」
「…シャルン妃が大事なのですよ、かけがえなく……世界を引き換えにしても良いぐらいに」
「…そう、だな」
レダンは叱られた子どものように俯く。
本当は何を犠牲にしても、それこそ彼女を拘束してでも水龍の使役を覚えさせ、世界の為にその力を使うように導いてやるのが、夫であり王である自分の務めなのだろう。今のままではシャルンは水流の力に振り回され、それこそ世界を滅ぼす闇の女神として名前を呼ばれる羽目になるかも知れない。
「俺はただ…信じたいんだろうな、シャルンの、待って欲しいと言うことばを」
『陛下、お願いがございます』
アルシアから戻った夜に、静かに瞳を潤ませて、シャルンがまっすぐレダンを見つめた。
『今夜より私をお忘れ頂きとうございます』
何の冗談だ。
自分の声がひび割れたのを覚えている。思わず掴んだ椅子の肘掛けが妙に冷たかったのも。
『ずっと、ではありません』
レダンの不安を察してくれたのだろう、シャルンは少し微笑んだ。
『しばしの間………私が、水龍シシュラグーンと馴染むまで』
馴染む。
そのことばがもう不愉快だった。
そなたを我以外の存在に「馴染ませる」のを認めよと言うのか。
『私の全ては陛下のものでございます……がしかし、この龍は、世の理を統べるもの故、私が馴染ませ損ねた場合は、陛下がご心配されるように、カースウェルの滅亡を招きましょう』
シャルンの声は震えなかった。淡々と、ただ淡々と語られる声、けれどその強さを裏切って、ついに零れ落ちた涙に、レダンは水龍の激しさとシャルンの覚悟を知った。
『私は陛下を……カースウェルを愛しております。その想いを貫きとうございます』
認めよう。
歯を噛み割るように唸った。
そして命じる、少しでも早く、我が元に戻れ、シャルン。
『ありがたき……幸せでございます』
抱きしめることさえできずに、遠ざかる背中を見送って、今にも至る。
「なあ、ガスト」
「はい」
剣を収め、彼方にシャルンの姿を眺めつつ、レダンは呟く。
「あの力は何なんだろうな」
「難しいことを聞きますね」
「なぜシャルンに取り憑いた?」
「表現は適切ですが」
「シャルン以外では駄目なのかな」
「水龍になったことがないですからね」
ただ、とガストはレダンから汗を拭った布を受け取り、用意された飲み物を渡す。
「面白い噂を聞きましたよ」
「面白い噂?」
「ミラルシア様ですが」
「ああ、右手を失ってしまったな。立派な剣士だったのに」
「…お褒めに預かり、光栄じゃ」
「っ」
響いた声に2人はぎょっとして振り返った。
濃紺のローブを被った姿が、いつの間にか間近に来ている。ガストは言うに及ばず、レダンも収めた剣を引き抜いた矢先、ローブの頭巾を銀色の籠手に包まれた手が払い落とした。
「あなたは…」
「ミラルシア…」
「守りの兵を責めるな、レダン。ルッカの手引きもあって、ここまで入れたのじゃから」
窶れて目元の皺も増えた、けれども妙に清々しい顔のミラルシアが微笑む。
「何かお話が?」
一礼して剣を収めたガストを背後に、レダンは相手を木陰へ誘った。シャルンが見ていたならば、無用な心配をさせるかも知れないと思ったが、それも杞憂だった。
「案ずるな、シャルン妃にも先ほどお会いした」
「シャルンに会えた?」
不穏な口調にミラルシアが低く笑う。
「同族じゃからな」
「…同族…?」
「ミラルシア様、まさか」
はっとしたようにガストが声を上げる。
「そのまさかよ。見よ、そなた達の知り合いが、ここにもおるぞ」
そのことばに続けて、ミラルシアが小さく何かを呟いた。シャルンが水龍の名前を呼んだ時のように、妙にあやふやな、聞こえるような聞こえないような音が流れたと思った瞬間、ぱりぱりっと何かを引き破るような音を立てて、ミラルシアの銀色の籠手が薄紫に発光する。
「この籠手は…失われた右手を模したものじゃが、どうにも気に入られたらしい」
ミラルシアが籠手から立ち上がる紫の閃光を差し出してみせ、薄く笑った。
「雷龍は、我が右手に宿った」




