#1 エイミー――故郷
自らの存在を否定し、すべては無だと考える人たちがいる。
彼らは、自分たちの呼び名はもちろん、施設や設備、構成員の素性も無としていた。
世間ではそれらを指して秘密結社と呼び慣わしている。
非常に限られた一部の人たちだけが、自分はε、あるいは"果樹園"だと自覚しているといわれている。
つい最近、その自覚が芽生えたエイミーは、国際宇宙機構で十二年かかって辿りついた特級秘書の地位を捨て、祖母の自邸玄関前に立っていた。
「結局、残ったのはこれだけか……」
彼女は握っていた超電導車の鍵を空中に投げてから掴んだあと、肩に下げた大きなトートバッグに入れた。
鍵がタブレットに当たるくぐもった音がした。
「随分せこい音ね。わたしの全記録だっていうのに」
エイミーは、すぐにそれらへの興味を失ったかのように、呼び鈴を鳴らした。
しばらくして扉が開いた。
「なんだい、あんたかい。どうしたね?」
午後だというのに、祖母のエポラールは寝間着姿だった。
「お婆ちゃん、ちっとも驚かないのね。こっちは決死の覚悟をしたっていうのに」
「あんたのやることは大方お見通しさ。どうせ馘にでもなって、行くとこがないから来たんだろうに。まあいいから、お入んなさい。ちったあ慰めてやるよ」
「どうだかね。お婆ちゃんの慰めは、わたしからすれば張り手みたいなものだから」
憎まれ口をききながらも、エイミーの瞳は潤んでいた。
「まあいいから、お入りよ。その張り手だって無意味じゃあない。あんたの寝ぼけた頭をしゃきっとさせらるかもしれないじゃないかい。ぼさっと突っ立ってないで、さあ、お入りお入り」
「お婆ちゃん!」
エイミーはそれまで一人で抱えてきた苦悩に突き動かされたのか、祖母に抱きついた。
「なんだね、この子は、気持ち悪い。――まあでも、こういうのも悪くはないね」
終わりのほうは囁くような声だったが、エポラールは孫娘を抱きかかえたまま扉を閉めた。
二人は飲みかけて冷めた紅茶の置かれたテーブルを挟んで、向かいあって座った。
「それで、どうしたいんだね?」
「うん、本当に辞めちゃったのわたし」
エイミーは寂しそうにぽつりといった。
「それで、リッキーのことは誰にも口外してないんだろうね?」
「してない。――それにディッキーはわたしにはなにも話してくれなかった」
「だからいったじゃないかい。知ったところであんたにはなにもできゃしないって」
現実主義というのだろうか、エポラールの言葉には容赦がない。
「でもね、それにはもう納得したの」
「あらそうかい、珍しい。勘繰りをやめられないのはあんたの一番悪い癖だからね」
「お婆ちゃん、小夜啼鳥って知ってる? その鳥に教えられたの。――声はすれども姿は見えずともいるんだって。それでわかった。この世の中には知れないことがあるんだって」
エポラールはエイミーの一人語りを黙って聞いていた。
「あのね、結局知れるのは、自分が感じてる温もりや喜び、それに痛みや哀しみだけなんだって、死ぬ思いをして気づいたの。でもね、お婆ちゃん、わたしそれでも大切な人を守りたいの。その気持だけはどうしても捨てられないの。それでよくよく考えた。こういう気持ちを解ってくれる人は、どこにいる誰なんだろうって。そうしたらさ、自然にここに足が向いたの」
「……」
「でもわたし、お婆ちゃんみたいに人脈もなければ、時間をかけてそれを作っても来なかった。だからね、なんにも無いの。本当になんにも無いのよ。――でも、どうしても捨てられないの。大切なものを守りたいって気持ちが」
「エイミー。あんた馬鹿だね。――昔はもうすこしお利口だった気がするね。自分のやりたいことに素直だったし、それで案外満足してたろ。でもまあ、あんたをそうさせたのはあたしかもしれないと思うと、責任を感じないわけじゃあない。だけど、あんたには無理だよ。あんたいま自分でいったとおり、なにも無いからね」
エポラールは真剣な眼差しをして、俯いたままの孫娘を見つめていた。
「残ったのはこれだけ。車の鍵とこのタブレット」
エイミーはそういって、その二つをテーブルに置いた。
「お婆ちゃん、中身見る? これはわたしの全記録よ。三十年間の人生の記録……」
「そんなものをあたしが見てどうなるね? どうにもならんだろ」
「そういわれると思った。ルフトさんもそういったんだ。――大切にしている人を守れるかもしれないなにかがあるかもしれない。ルフトさんだってそれはわかってたはず。でもね、見ないって。破棄してくれっていわれたの。わたしびっくりした。だって予想外だったんだもの。誰だって飛びつく。そう思ってたからね。でも、いまはわかるよ。ルフトさんの気持ちもお婆ちゃんの気持ちも」
エポラールは痺れをきらしたのか、再びはじめの質問を繰り返した。
「それで、どうしたいんだね?」
「わからないの。何度も何度も考えた。車のなかでも考えつづけたの。でもわからないのよ、お婆ちゃん」
「まあええわい。そういうことなら、しばらくここにいて考えるとええ。もっとも、いつまでもって訳にはいかないけど……」
「うん、わかった。ありがとう、お婆ちゃん。――二回の部屋、しばらく借りるね」
エイミーはそういうと幽霊のように立ち上がって、階段へ向かいはじめた。
だが、階に足をかけようとして振り返った。
「お婆ちゃん。もうすぐはじまるよ。――戦争が」
エポラールは知っているとばかりにしっかりと頷いた。
それで満足したのか、エイミーは夢遊病者のように階段をのぼっていった。
孫娘の後姿を見送ったエポラールは、ポットに残っていたお湯をカップに注ぎ足して紅茶を口にしたあと、
「うん、まだいけるね。それに味も悪くない」
といった。




