第32話
「これより、ハタノ・ケンジの検査手順に基づき、区画の状態を確認します」
技官の声が、崩れかけた魔晶石区画に響いた。
砕けた岩片の匂いが、まだ風に混じっている。
崩落面の奥から、乾いた粉塵が薄く舞い上がっていた。
ケンジは一歩下がり、腕を組んで見守る。
「俺は口を出さない。手順通りにやってくれ」
「わかっている。お前に頼らないと決めたのは、こっちだ」
「本当に、いいのか。俺が確認した方が早いかもしれない」
「早さより、誰がやっても同じ結果が出ることの方が大事だと、お前が言ったんだろう」
「言った。なら、余計な口は挟まない」
「口を挟まれたら、それこそ手順の意味がなくなる」
「わかってる。見てるだけだ」
「見てるだけで、我慢できるのか。お前らしくないな」
「我慢するのも、手順のうちだ」
クラインが包帯の腕で帳面を抱え直し、崩落した壁の断面へ歩み寄った。
足元で小石が転がり、乾いた音を立てる。
断面に走る亀裂が、指先ほどの幅で口を開けていた。
「消費ログ、持ってきました」
「発注記録と並べろ。数字だけ見ればいい」
「並べます。感情は挟みません」
「感情を挟まない方が、早く終わる。焦る必要はない」
「焦ってはいません。ただ、緊張はしています」
「緊張くらいはしていい。数字は嘘をつかない」
技官が二冊の帳面を地面に広げ、指先で行を追っていく。
紙面の端が風にめくれかけ、技官がすかさず石で押さえた。
「七番、八番……ここも実着が三割少ない」
「十番、十二番も同じです」
「同じ幅で欠けてる。四つとも」
「偶然にしては、揃いすぎていませんか」
「揃いすぎています。これは、記録の問題です」
クラインの声が、わずかに強張った。
「発注は毎回、実際の三割増しだ。差額はどこへ消えた」
「知らんな。倉庫の管理まで、わしの責任か」
ガレンが腕を組み、視線をそらす。
「その程度の差は、季節の湿度でいくらでも出る。毎年のことだ」
技官が一瞬、言葉を詰まらせた。
「季節、ですか」
「そうだ。湿気が多い時期は資材が水を含む。目減りするのは当然だろう」
「水を含むと、目減りするんですか」
「わからんのか。木の樽は湿気を吸って、中身が縮んで見える」
クラインも眉をひそめ、帳面をめくる手を止める。
「それは……否定できる材料が、今すぐには」
「今すぐになければ、後になっても出てこない」
「なら黙って記録を受け取れ。それとも、まだ何か言うことがあるのか」
「いえ、今は、何とも」
「無いなら、話は終わりだ」
もっともらしい理屈が、その場の空気を止めた。
風が一段と強くなり、砕けた粉塵が舞い上がる。
技官の手が、帳面の上で止まったまま動かない。
ケンジが静かに一歩、前へ出る。
「湿度なら、記録がある」
「記録、だと」
「審問が始まった日から、王都の月ごとの気象記録を取り寄せていた。念のためだ」
「念のため、って……いつからそんなものを」
「初日からだ。誰かが言い訳を持ち出すと思っていた」
「初日から? そこまでする必要が、どこにあった」
「数字だけじゃ人は動かせない。言い訳を潰す材料まで揃えて、初めて証拠になる」
「準備が良すぎるだろう、それは」
「準備が良すぎて困ることは、一度もなかった」
ケンジが懐から紙を取り出し、隊長格へ差し出した。
紙の端が、日に焼けてわずかに黄ばんでいる。
「この二週間、湿度はほぼ変わっていない。季節差じゃ説明できない数字だ」
「たまたま平年より安定していただけかもしれん」
「それなら、四つの樽の欠け方がばらつくはずだ」
「なぜだ」
「湿度が原因なら、樽ごとに置き場所も違う。欠ける幅も違って当然だろう」
「四つの樽、四回とも同じ幅で欠けている。湿度が原因なら、幅は毎回違うはずだ」
「置き場所が同じだったとしたら、どうだ」
「倉庫の配置図も取り寄せてある。四つとも別の棚だ」
「別の棚で、同じ湿度……」
「別の棚で、同じ湿度に晒されるとでも言うつもりか」
ガレンの口が、開きかけて止まった。
喉の奥で、言葉にならない音だけが漏れる。
「王室の威信のため、この場は穏便に……」
「穏便に、というのは証拠を消せという意味か」
隊長格の声が低くなる。
「違う、そういう意味では」
「では、どういう意味だ」
「わしは、長年……その、王室のために」
「王室のために何をした。差額を、どこへ運んだ」
「わ、わしは……長年、陛下にお仕えしてきた身だぞ」
「その身分を盾に圧力をかけようとした。それも記録に残す」
「記録に残すというのか、今の、わしの言葉まで」
「一言残らず。書記、聞こえたな」
隊長格が紙束を掲げ、周囲へ告げた。
「ガレンの発注権限は本日をもって停止。処分は追放とする」
「追放……」
ガレンの膝が、崩れるように地に落ちる。
指先が土をつかみ、震えながら滑った。
「わしが……この、わしが」
「かつて、貴殿がハタノ殿へ下した処分と同じだ」
「同じ、だと……」
「同じだ。覚えていないとは言わせない」
隊長格の言葉に、ガレンは返す声を持たなかった。
衛兵二人がガレンの両脇を支え、区画の外へ連れていく。
その背中は、来たときよりひと回り小さく見えた。
「増し打ち工法は、防壁全体で正式に採用する」
隊長格が向き直り、ケンジへ頭を下げた。
「よくやってくれた」
「俺じゃない」
ケンジは首を振る。
「クラインと技官殿が、手順通りに検証した。それが全部だ」
「気象記録を出したのは、お前だろう」
「記録を取り寄せただけだ。読んだのは、いつか誰かが言い訳を持ち出すと思ったからにすぎない」
「じゃあ、称賛は誰に」
「村のトトとバルガスにも伝えてくれ。検査の記録を毎日つけていたのは、あいつらだ」
「あの少年と、ドワーフの棟梁か」
「そうだ。毎日の数字がなければ、今日の反証もできなかった」
クラインが帳面を閉じ、小さく笑った。
「相変わらず、自分の手柄にはしない男だな」
「手柄より、手順が残る方が大事だ」
「手柄は消えても、手順は残るということか」
「そういうことだ。俺がいなくなっても、誰かが同じ数字を読める」
「手順が残れば、お前がいなくても回るというわけか」
「そういうことだ」
◇◇◇
帰路につく前夜、宿の庭でリリアーナが結晶の包みを結び直していた。
白い光が、布の隙間からわずかに漏れる。
そこへ、伝令の少年が息を切らして駆け込んできた。
「街道が……崩落の瓦礫で、一部ふさがれています!」
「ふさがれたって、どこがだ」
ケンジが立ち上がり、少年へ向き直る。
「村へ向かう最短路の、谷を渡る橋の手前です。迂回するしかありません」
「迂回すると、何日かかる」
「二日、多くかかるかと」
「二日……」
リリアーナの手が、結晶の包みの上で止まった。
「あと二十一日で、備蓄が尽きます。二日削られたら」
「十九日しか残らない」
ケンジの声が、低く沈む。
「十九日で、間に合うんですか」
「普通に歩けば、間に合わない」
「じゃあ、どうするんですか」
「夜明け前に発つ。休む時間を削れば、二日のうち一日は取り戻せる」
「一日じゃ、まだ足りません」
「足りない分は、荷を減らして進む速度で稼ぐ」
「荷を減らすって、検査道具まで置いていくつもりですか」
「置いていかない。積み方を変えるだけだ」
「それで、本当に間に合うんですか」
リリアーナの声に、初めて焦りが滲んだ。
「間に合わせる。備蓄が尽きる前に、村へ戻る」
ケンジが結晶の包みへ視線を落とし、静かに言い切った。
「……変わっていません」
リリアーナが、灰色の指先をそっと見せる。
「進んでも、戻ってもいない。今のところは」
「そうか」
「そうか、としか言わないんですか」
「他に何を言えばいい。変わっていないなら、それが答えだ」
「もう少し、心配してくれてもいいのに」
「心配している。だから、毎日聞いている」
短い沈黙のあと、リリアーナが結晶を包む手を止めた。
夜風が布の端をわずかに揺らし、光が瞬く。
「……似ているのでしょうか、あの手形と」
「二千年前の、あれか」
「石灰岩に埋まっていた、あの手だけが石になった跡です」
ケンジは結晶を受け取り、光にかざす。
輪郭が、指の間でわずかに揺れた。
「……確かめるのは、村に帰ってからだ」
リリアーナがうなずき、荷物の紐をきつく締める。
夜風が、二人の間を静かに通り過ぎていった。




