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水路は歓声に沸いた――三日後、たった一つの供試体だけ芯が固まっていなかった

「開けます!」


ケンジの声が、朝の水路に響いた。


木製の水門が軋みながら持ち上がっていく。


湿った木の匂いと、下流から吹き上げる冷たい風が入り混じる。


歯車の軋む音が、一つ、また一つと重なっていった。


「まだですか、まだですか!」


「トト、静かにしてろ。水は逃げねえよ」


バルガスが苦笑いしながら、トトの肩を押さえた。


「でも、でも見たいんです。何日も待ったんですよ」


「待ったのはお前だけじゃねえ。村中が待ってたんだ」


「バルガスさんだって、昨日は寝られなかったって言ってたじゃないですか」


「うるせえ、誰から聞いた」


「奥さんです」


「あいつめ、余計なことを」


「本当のことじゃないですか。夜中に何度も外を見に行ったって」


「見に行ったんじゃねえ、様子を確かめに行っただけだ」


「それを寝られなかったって言うんです」


「屁理屈をこねる歳になったか、お前も」


水門の隙間から、最初の一筋が流れ出す。


日の光を弾いて、その一筋だけが白く輝いていた。


「来た! 来たぞ!」


村人の一人が叫んだ。


水は試験区画の溝を伝い、乾いた畑の畝へと吸い込まれていく。


日の光を受けて、細い流れが銀色に跳ねていた。


土の匂いが、湿りけを帯びて濃くなっていく。


「うわあああ!」


子供たちが水路沿いを走り出した。


裸足の足が跳ねる水しぶきを追いかけていく。


「土が……土が、黒くなってく!」


「そりゃそうだ、水が染みてんだよ」


「こんなに早く染みるんですか」


「乾ききってたからな。喉が渇いた奴が水を飲むみてえなもんだ」


「じゃあ、この畑もずっと喉が渇いてたんですね」


「ずっとだ。お前が生まれる前からな」


「そんな前からですか」


「そんな前からだ。だからお前の親父も、その親父も、水を待ち続けてた」


「待ってて、よかったですね」


「待つだけじゃ届かなかった。届けた奴がいたから、届いたんだ」


村長が両手を広げ、天を仰いだ。


「これで、来年は飢えん! みんな、聞いたか、飢えんぞ!」


「村長、まだ試験区画だけです」


「分かっとる分かっとる、それでも今日は祝いだ!」


「気が早いですよ」


「気が早くて何が悪い、待ちくたびれたんだ俺たちは!」


「本体が終わるまでは、油断できません」


「分かっとるっちゅうに。今日ぐらい浮かれさせろ」


「浮かれるのは構いませんが、記録は取ります」


「トトのやつ、こんな日まで木札を離さねえのか」


「離しません。祝いの日こそ、あとで見返す時に困りますから」


歓声が波のように広がっていく。


誰かが太鼓を叩き始め、別の誰かがそれに合わせて足を鳴らした。


土埃と水しぶきが同時に舞い上がり、日差しの中で小さく光る。


乾いた地面を打つ水音が、次第に太鼓の音と重なっていった。


「リリアーナ様、見てください、あそこ!」


「ええ、見えています」


リリアーナが水路の縁に立ち、流れる水を見下ろしていた。


風が彼女の髪を持ち上げ、頬に一筋だけ落としていく。


「触れなくても、届くんですね」


「僕の役目じゃなくて、水路の役目だから」


「それでも……嬉しいです」


彼女の声が、いつもより少しだけ高かった。


「この光景を見るために、あの日数えていたんですね」


「数えるだけの日々にも、意味はあったってことです」


「意味、ですか」


「あなたが数えた石材の一つ一つが、ここに積まれてます」


「一つ一つ、なんて覚えていません。ただ数えていただけです」


「数えた分だけ、水はちゃんと届いてます。見てください、あの畝まで」


「……本当ですね」


「本体の方も、このまま行けば十日で通水できます」


「十日、ですか」


「クラインさんの前倒し案のおかげで、工期は縮んでる」


「あの減水剤、使って大丈夫なんでしょうか」


「三日後の供試体次第です。今のところ、悪い兆候は見てません」


「見てない、というのは、安心していいということですか」


「安心はまだ早いです。確かめてから言います」


「確かめるまでは、喜ばない主義ですか」


「喜ぶのは今日だけで十分です」


「今日だけ、なんて寂しい言い方」


「今日を積み重ねるしかないんです、こういう仕事は」


ケンジはそう言いながら、水路の下流に目をやった。


濁った水が畝の一つずつを満たしていく様子は、何度見ても飽きない光景だった。


歓声の中に、太鼓の音と子供たちの笑い声が溶けていく。



三日後、供試体置き場にトトの姿があった。


木箱に並んだ七つの塊のうち、六つはすでに硬い灰色をしている。


「よし、六つは合格……あれ?」


トトの指が、端に置かれた七つ目に触れた。


「へこむ……?」


指の先が、表面にわずかに沈み込んでいく。


「うそ、うそでしょ」


トトはもう一度押した。


同じところが、同じだけへこんだ。


冷たい汗が、トトの背筋を伝う。


木箱の陰から漏れる光が、へこんだ跡だけを妙に濃く照らしていた。


「先生! 先生、大変です!」


トトは供試体を両手で抱え、走り出した。


祝いの太鼓の音が、まだ遠くから響いている。


息を切らしながら、水路のほとりまで駆け抜けた。


「先生、これ! これ見てください!」


「どうした、そんなに慌てて」


「減水剤の分だけ、へこむんです。他の六つは平気なのに」


「へこむって、指で押しただけで?」


「はい。何度押しても、同じところが」


「押す強さは、いつもと同じにしたか」


「同じです。他の六つで確かめてから、七つ目を押しました」


「六つは硬かったんだな。柔らかいのは、この一つだけか」


「一つだけです。間違えてないです、ちゃんと確かめました」


「日数は、間違いないな。三日、経ってるな」


「今日でちょうど三日目です。数え間違いはありません」


ケンジの表情が、一瞬で変わった。


「見せて」


受け取った供試体を、両手で確かめる。


指先が沈む感触に、彼の眉がわずかに寄った。


「……本当だ」


「割ってみますか」


「割る」


ケンジは供試体を石の上に置き、鑿を当てた。


小さな金槌を、一度だけ振り下ろす。


パキ、という乾いた音とともに、断面が割れて開いた。


「……あ」


トトの声が、喉の奥で止まった。


断面の中心――芯の部分だけが、湿ったまま黒く光っている。


表面はどうにか固まっていても、内側はまだ水を含んだ土のままだった。


祝いの歓声が、風に乗って遠くから聞こえてくる。


ケンジはそれには気づかないまま、断面を見つめ続けていた。


「……固まって、ない」

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