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下、終わりのないプレリュード

 


「ルーカス、もう出る時間じゃない?」

「あ、本当だ。じゃあ、先に行くよ。」

「行ってらっしゃい。」



 甘くしたカフェラテを飲みながら時計を見上げ、わたしは2階のルーカスに声をかけた。ルーカスはぱたぱたと階段を駆け下りると、わたしに右手を振って、家を出ていった。





 わたしとルーカスが同居生活を始めてから、もう1年近く経つ。初めてルーカスとまともに話したときからほどなくして、ルーカスはわたしの家に転がり込んできた。いや、わたしが転がり込ませた、とでもいうべきか。



 親戚の家で居心地悪そうに暮らしていたからとか、お腹を空かせた姿を見かねたとか、理由はいろいろとつけたけれど、要するにただの勢いだった。そんな行き当たりばったりの行動にしては、わたしたちはうまくいっている。


 家事の分担とか、内職でやっている小物づくりの手伝いを、ルーカスは率先してやってくれるから、わたしの生活にも余裕ができた。波長が似ているというのが一番しっくりくるだろうか。とにかく、性格は全く違うくせに、妙に気が合った。



 わたしたちは、恋人ではない。それは確かだ。

 そういう態度をとったことはお互いにない。ただ、まったく考えなかったと言えば嘘になる。わたしの場合は。



 ルーカスはかっこいいし、残念なところもあるけど優しいし、良いやつだ。自分でもよくわからないけれど、たぶんふとした瞬間に感じる淡い思いが、恋心みたいなものなのだろう。しかし、それがもっと確かなものになったとしても、わたしはルーカスに伝える気はなかった。



 この心地いい同居生活も、友達以上恋人未満という関係も、期限付きのものだと、わたしは痛いほどにわかっている。それはきっと、ルーカスも同じだ。いつまでもこんなことは続けられない。ルーカスはあと数ヵ月もすれば帝都に行ってしまうのだ。わたしを置いて。


 それは当然のことだし、それでいいと思っている。ルーカスみたいな人は、こんなところで立ち止まることなく、もっと大きな何かを成し遂げる人だから。





 わたしはすっかり冷めたカフェラテの、とろりと泡立った水面を見つめながら、祈るような気持ちで手を握りしめた。いつか来る別れの日に、どうか笑えますように。わたしの思いが、どうかこのまま消えてしまいますように。




 ジュースを飲むときにストローを軽く噛む癖とか。

 チーズが嫌いなのに、グラタンをほおばってとろける顔とか。

 玄関を出てすぐ、鼻をすんっと鳴らして外の匂いを嗅ぐしぐさとか。

 せっかくプレゼントしたのに、部屋で一週間前を示し続ける日めくりカレンダーとか。


 わたしが、ルーカスのそんなところを知っていたって、今更なんにもならないのだ。そんなの、わたしとルーカスが一緒に暮らしはじめてしまったときから、わかっていたことなのだから。





 大学校の入学試験の日が、刻一刻と迫ってきて、あっという間にあとひと月になった。ルーカスもどこか緊張した面持ちになってきて、リビングのソファに座ってじっと何かを考えていることが多くなった。わたしは努めていつも通りであろうとしている。




「シャーロット、話があるんだけど。」


 そんなある日の夕食後、ルーカスがキッチンに立つわたしを呼ぶ。わたしは平静を装って応じながらも、きっとここを出ていく支度についてだとあたりをつけていた。



「なに?」



 わたしはランプをダイニングテーブルに置いて腰を下ろし、向かいに座るよう手で促した。ルーカスは素直に座って、しばらくうつむいたまま、話し出そうとしない。わたしもすすんで聞こうとは思えなくて、橙色に照らされる彼の顔を見つめながら、急かさずに待っていた。



「俺、帝都に行くのをやめようと思うんだ。」

「えっ?試験を受けないってこと?」



 わたしは一瞬耳を疑った。



「どうして?帝都に行くのが夢だったって言っていたじゃない。」

「……夢、か。」



 ルーカスは笑っていた。見たこともない、ゆがんだ笑みだった。冬の海のような瞳のなかで、ガスランプの炎が揺らめくのを見て、わたしはどうしようもないほどの不安を感じる。わたしは怖くなって、ルーカスの名前を呼んだ。



「別に、何かを目指していたわけじゃないんだ。ただ、帝都に行けば、この街を出ていけば、何かが変わって……そこには幸せがあるんだって信じていただけだ。そんなの、本当は夢なんて綺麗なものじゃない。」



 ルーカスが机の上でこぶしを強く握り締めるのがわかる。わたしはなんて言えばいいのか到底思いつかなくて、彼の言葉をただ受け止めていることしかできない。彼の瞳は今にも泣きだしそうで、わたしはあの日、ひとりぼっちで暗い路地にいたルーカスの姿を思い出していた。



「でも、わかったんだ。」



 ルーカスは勢いよく顔を上げて、わたしをじっと見つめた。目を真ん丸にしたわたしが映っている。



「俺の幸せは、ここにあったんだって。……シャーロットのそばに。」



 ルーカスは椅子から立ち上がって、わたしの横まで歩いてきた。わたしが困惑しながら見上げると、ルーカスは突然床に片膝をついて言った。



「好きだ、シャーロット。ずっと一緒にいてください。」



 まっすぐな瞳が、わたしをとらえて離さない。

 どうしようもなく胸が高鳴った。視界がぼやけるけれど、わたしは必死に涙がこぼれないように目元に力を入れる。わたしは膝の上で手をきつく握りしめながら、首を横に振った。



「だめよ、それはできない。」

「どうして?」

「だって、ルーカスの言う通り、帝都にはきっと、もっと大きな幸せがあるから。あなたは帝都に行って、自分の才能を生かすべきでしょう。」



 わたしは立ち上がって、ルーカスの頬を両手で挟んだ。



「これはわたしのエゴかもしれない。でも、ルーカスだってそうなんじゃないの?幸せのためだけじゃない。わたしはルーカスが誰にも負けない好奇心を持っているってこと、ようく知ってるの。もっと学びたいって気持ちがかけらもないなんて言わせない。本当は、帝都に行って自分の力を試してみたいって思っているんでしょ?」



 ルーカスが視線を彷徨わせて、それは、と口ごもった。瞳のなかでオレンジ色の光がくるりと回るのを見て、わたしはルーカスの心が本当はどちらに傾いているのか悟った。やっぱりわたしは、彼の背中を押してやるべきなんだ。



「わたし、そんな人とは一緒にいられません。」

「どうしても?」

「どうしても。」



 ばかだなあ、この人は。

 わたしは呆れてしまって、さっきのどきどきした気持ちもどこかに行ってしまった。ルーカスのほっぺたを揉んでから、額をぺちっと叩いて、立ち上がらせる。



「ほら、立って。もう心は決まったでしょ?」

「……うん。ありがとう、シャーロット。」

「はいはい、お風呂でも入ってきたら?」



 ルーカスはうんともすんとも言わなくなってしまって、わたしは首をかしげた。床に膝をついていたから、冷たくなっていないか心配だ。試験中に体調を崩したら大変なのに。



「ねえ、シャーロット。」

「なに?」

「俺のこと、待っててくれる?」



 ルーカスは右手でわたしの左手を取って、指を絡ませた。普段は意識しない彼の手のひらが、いつもより熱く感じた。



「好きなのは本当だ。俺のことどう思ってる?嫌い?」



 嫌いだなんてそんなことを、わたしに言わせるつもりなのだろうか。だとしたら、ルーカスの目は節穴だ。確かに最初は苦手だったけど、そんなの食わず嫌いみたいなものだった。本当に今でも嫌いだったら、同居なんて続けてないし、ルーカスのことでこんなに悩んだりしないのだ。



「ばか。」



 わたしがそう言うと、ルーカスはつないだ手をぎゅっと握った。わたしをのぞき込む瞳が、それで?と答えを急かしている。わたしはとうとう、その手を握り返した。



「待ってるから。ちゃんと帰ってきて。」

「約束する。」



 ルーカスはとびきり嬉しそうにそう言って、手を繋いだままわたしを抱きしめた。そして、左手をわたしの頬に添わせると、触れるだけのキスをした。ルーカスの指先と唇の熱さにわたしはびっくりしたけれど、じんわりとしたあたたかさがわたしの胸を満たすのを感じていた。



「試験で不合格なんて、ゆるさないから。」



 恥ずかしさを誤魔化すようにルーカスをにらみつける。ルーカスはわたしの顔の火照りが見えているかのようで、わたしの態度なんて気にした様子もなく、幸せそうに笑った。



「絶対受かるよ。シャーロットが傍にいてくれるなら。」





 ルーカスが帝都に旅立つまでの2週間、恋人になったわたしたちが変わったことといえば、手の繋ぎ方くらいだった。ルーカスの試験勉強も大詰めだったし、引っ越しのための準備も、学校の卒業式もあってあわただしくて、わたしは家の中を走り回る日々だった。そんなだったから、甘い雰囲気を感じるという暇もなく、わたしたちは別れの日を迎えていた。



「気をつけて。」

「うん。」

「元気でね。」

「シャーロットも。」


 短くキスだけを交わして、あっけないくらいあっさりと、ルーカスは新しい場所へと旅立った。





 ルーカスからは、月に2回ほど手紙が届いた。最初の手紙は、試験に合格したことと、帝都の街並みと、とにかく人が多い、ということが興奮した筆致で書かれていた。


 わたしは、急いでサラの雑貨屋からレターセットを買ってきて、お祝いの言葉と、わたしの近況とを綴った。わたしはルーカスからの手紙を何度も読み返して、ルーカスはどんなに楽しんでいるだろう、ということに思いを馳せて……。


 ふと寂しさが心をよぎって、手紙に付け加えてしまった。封蝋を落とした時に、未練がましいことを書いたと後悔したけれど、もう切手も貼ってしまったのでそのまま投函した。




 次の手紙は、大学校の授業がとても興味深いということが書いてあった。帝都に来てやっぱりよかった、と。それを見て、わたしはとても安心した。


「俺も寂しいけど、胸張って帰れるように頑張るから。」


 最後に付け足された一文は、書くか書かないか相当に迷った様子が見て取れて、思わず声を上げて。笑ってしまった。それから、わたしたちはなるべく気持ちを偽らずに手紙を書くようになった。




 広い部屋が寒い。―――狭い部屋が暗い。

 一緒にお花見をしたい。―――人ごみの中、手を繋ぎながら歩きたい。

 海に行って遊びたい。―――望遠鏡で星を見たい。

 紅葉を見ながら散歩がしたい。―――おいしい料理をふたりで食べたい。

 寒いから、くっつきながら眠りたい。―――雪が恋しい。


 会いたい。―――あいたい。




 わたしたちの手紙のやり取りは、一年中、欠かすことなく続いた。ルーカスからの手紙はすべて取ってあって、ブナのチェストに丁寧にしまっている。そのうち一番上の引き出しだけじゃ足りなくなって、2段目になって、2つ目のチェストを買った。



 最近では、ルーカスの噂もよく耳に入る。帝都でも天才は天才だったみたいで、一目置かれた存在らしい。帝都のどこどこで働きだしたとか、いいやまだ学生だとか、あることないこと言われている。


 帝都から来たという行商人は、買い物をしていたわたしに向かって、ルーカスがいかに優秀か、そして帝都のお嬢さん方に引っ張りだこになっているかを熱弁していた。わたしは、それはわたしの恋人です、だなんて言えないので、へらりと愛想笑いを浮かべながら嵐が去るのを待った。あのときは、辛抱強くなったと自分の成長を自画自賛したものだ。


 ちなみに、大学校を卒業した後の話などは、手紙には一切書かれたためしがないので、決まったら教えてくれるのだろうと思っている。




 朝の細々とした用事を済ませ、わたしは学生のころから随分と伸び、結いあげていた髪を下ろして、いつものカフェラテを片手に一息ついていた。学校を卒業してからというもの、しばらくは在学中から続けていた小物づくりを職にしている。サラの雑貨屋さんにおいてもらうと、わりといい収入になる。今ではそれに加えて、絵本を書いてみたり、近所の小さな子どもを預かって読み書きを教えたり、手広くやりたいことをやっている。




 時計の秒針を聞きながらゆっくりしていると、にわかに外が騒がしくなった。不思議に思って窓の外を見ようと立ち上がった瞬間、勢いよく玄関の扉が開く。



 そこには、息を切らした、ルーカスがいた。

 6年前に別れた時より、少し背が伸びて、体つきもがっしりとして、大人びた姿だった。



「シャーロット、ただいまっ!」


 どんっという衝撃から遅れて、ルーカスに抱きしめられていることに気づく。わたしは迷うことなく、ルーカスの背中に腕を回して、胸に顔を埋める。じわりと目元が熱くなった。




 ああ、ようやく言える。




「おかえり、ルーカス。ずっと待ってたわ。」









ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ハッピーエンドで良かった 『木綿のハンカチーフ』にならなくて [一言] さっくりと軽く読めて面白かったです
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