二航戦司令は「人殺し多聞」の汚名返上のためサスティナブルな母艦航空隊の創生を目指す
エンタープライズなどという名前の空母の存在を許すべきではない倶楽部会員です
ミッドウエイ海戦後、2発の1000ポンド爆弾を被弾し大破した飛龍と共に横須賀に帰着した山口多聞少将は、その職を解かれず第二航空戦隊の再建のため司令官職を続投することになった。
ミッドウエイの戦闘に於いて唯一米機動部隊と干戈を交えた航空母艦飛龍は、母艦数1対3と劣勢の中で米空母ヨークタウンを撃破する戦果を挙げた代償として搭載航空隊が壊滅し搭乗員70名以上が戦死している。
飛龍乗艦搭乗員の7割近くが失われたこの戦闘の指揮を執った山口少将に対し海軍内部では、唯一戦果を挙げた将官としての評価がある一方で、あまりにも高い搭乗員の損耗率に対し名実ともに「人殺し多聞」となったとの風評を生むことにもなった。
もちろん山口少将としても望んでこの惨事を招いたわけではないが、十分な護衛を伴わず攻撃部隊を送り出したことや、敵情の確認が不十分であったために損傷していた空母ヨークタウンに対し再度攻撃を行ってしまったことなど多くの悔恨を残す戦闘結果になったことは紛れもない事実だった。
空母飛龍の修理が終わったのは海戦から4か月にもなろうかという9月の終わりで、その間ソロモン海での母艦航空隊の消耗が続いたこともあり飛龍航空隊の再建は遅々として進まず搭乗員の充足率は6割を切っていた。
山口は航空隊の再建と並行して空母機動部隊の作戦行動の検証を行い、開戦当初熟練搭乗員揃いであった母艦航空隊が半年余りでその多くを喪い、相次ぐ海戦による損害で半減している空母部隊の搭乗員定数も満たせぬ惨状に陥った要因とその防止対策について参謀や生き残りの士官搭乗員たちと共に考察を重ねた。
航空部隊の損耗として最も大きな要因は、奇襲攻撃であった真珠湾攻撃や圧倒的な戦力優位であったインド洋での戦いなどを除けば敵迎撃戦闘機による被撃墜であり、特にミッドウエイ海戦での飛龍攻撃隊や第二次ソロモン海海戦での一航戦艦爆隊の大損耗など直掩戦闘機の圧倒的劣勢によって攻撃隊に大損害が生じている。
続く要因としては米海軍艦艇の強力な対空砲火による被弾喪失が上げられる。
特に輪形陣によって固く守られた米機動部隊への攻撃に於いては、濃密な対空砲火によって攻撃機が投弾前に次々と撃墜されることが多々あった。
それ以外に、機体の損傷による自爆、機位を喪ったことによる自爆未帰還、機体の故障による未帰還なども無視できない程の喪失要因として数えられた。
これらの損失に対する対策として第一にあげられたのは直掩戦闘での優位を保つための搭載戦闘機の増勢であり、これは艦爆や艦攻の搭乗員の養成が進んでいないことも影響しており、基地航空隊からの転換者を多数集めたこともあり戦闘機搭載比率の上昇は比較的容易に実現された。
続く対策としてあがったのは攻撃戦力の集中による対空砲火の分散で、これは敵対空砲火が有限である以上多数の攻撃隊を集中して同時に攻撃することにより1機当たりに対する投射火力を減少させることを目的としている。
これに対応して爆雷撃方法の見直しが行われ、急降下爆撃に於いては従来の嚮導機から連続しての爆撃から同時一斉爆撃へと変更されている。
雷撃に於いても同一高度で直進しての投弾となる雷撃機は対空砲火にとって狙いやすい的であるため、小隊単位に分散しての同時多方向雷撃により被弾を局限する戦術が採用された。
これらの爆雷撃方法の変更により搭乗員の技量低下と相まって命中率が大きく低下することが懸念されたが、搭乗員の生残性を高めることの方が重要とする山口の判断によりこの変革は推し進められることになる。
昭和17年9月下旬に到り飛龍は損傷の修理を終え、同年8月に完成就役していた改造空母龍鳳を新たに加えた新生2航戦として部隊錬成が始まった。
その当時第三艦隊の主力空母機動部隊はガタルカナル島での反撃作戦の支援ためソロモン諸島方面での作戦機動中だったが、二航戦の2隻は搭載機が定数を大きく下回っているうえ搭乗員の練度もその多くが要求水準に達していなかったため戦場への投入は見送られている。
翌11月に入り二航戦は搭乗員が定数に満たないままトラック島に進出、同地で一航戦の搭乗員を航空隊に取り込むと陸軍の輸送作戦支援のためソロモン諸島方面に出撃する。
ガタルカナルでは日米艦隊の壮絶な夜戦での砲火の応酬が起こり、日米合わせて3隻の戦艦の他多数の艦艇が鉄底海峡に沈んでいく。
12日の夜戦で大破した戦艦比叡を自沈に追い込んだキンケード提督率いる第16任務部隊の米空母エンタープライズは、その後も日本軍の艦艇や輸送船相手に暴れ回ったが、14日の現地時間16時攻撃隊の着艦作業中に二航戦の2空母から出撃した50機余りの攻撃隊による奇襲を受け、迎撃のF-4 戦闘機隊が壊滅、エンタープライズも250キロ爆弾4発と魚雷3本を続けざまに被弾、ダメージコントロールが間に合わず弾薬庫が誘爆し多数の乗員と共に沈没する。
二航戦は翌15日ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場を爆撃するとともに、海岸に擱座して揚陸中の輸送船を戦闘機部隊で掩護する。
2日間の戦闘により二航戦は搭載機の半数近くを喪い、損傷機も多数出たことにより稼働機が激減し15日正午よりガタルカナルの戦場から撤退する。
ガタルカナルの戦闘は翌年2月に行われた日本軍の撤退作戦によって幕を引き、日本軍は多数の艦船や航空機を喪いこれ以降の戦闘の主導権を米軍に奪われてしまう。
日本海軍の空母機動部隊もまた航空戦力の過半を喪い、その戦力の再建に至るまでに長い期間を必要とすることになる。




