【泥濘をのぞく時︰泥濘は】
カチャッ、と無機質な音を立てて4つ目のボイスレコーダーが止まると、部屋には再び重苦しい沈黙が降りた。
氷が完全に溶け切り、ただの泥水のような色になったグラス。その表面から、水滴がゆっくりとテーブルへ滑り落ちる。そのかすかな「ぴちゃり」という音さえ、今の私にはひどく恐ろしく思えた。
「……ねえ、寧々」
先に口を開いたのは凛だった。いつものオカルト話をする時の興奮するような声ではない。ひどく低く、深淵を探るようなトーンだった。彼女の視線は、テーブルの上にまだ残されている5つのボイスレコーダーに釘付けになっている。
「これ、全部同じパターンだよね。二原港の黒猫、輝南町の緒返し、這子谷の共結び、そして工場の水代……。全部『水』にまつわる呪いで、最後には必ず『ごぼ、ごぼごぼ』っていう謎の水音が入ってる」
私は乾ききった唇を舐め、震える首で小さく頷いた。
「うん。それに……どの録音でも、おじいちゃんはただ話を聞いてるだけじゃない。まるで、相手が『呪い』の底へ引きずり込まれるように、言葉巧みに誘導してる。その人その人に合わせて、性格や話し方すら変えて……まるで、おじいちゃん自身が呪いの引き金を引いているみたいに」
「そう、それそれ!」
先程までの重い空気とは打って変わり、凛は身を乗り出して目を光らせた。
「これはただの記録じゃないの。寧々のおじいさんは、呪いの『媒介』……いや、『案内人』になってるって言っていい。オカルト的な視点で言っちゃえば、ある特定の条件を満たすための儀式を繰り返しているように見えるんだよね」
「儀式……? なんのための?」
「さっぱり、わからない。でも、これだけ水にまつわる呪いや生贄を集めてるってことは、何か巨大なものを呼び覚まそうとしているかも、あるいは……」
凛は言葉を切り、私をじっと見つめ返した。
「寧々に、その『何か』を引き継がせようとしているのかも。代々受け継ぐことで完成する呪い、っていうのも珍しくないし」
背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走った。優しい笑顔しか思い浮かばない祖父が、私にこの呪いの連鎖を押し付けようとしている? なぜ? 私が一体、何をしたというのだろう。
「……警察には、やっぱり持っていけないよね、こんなもの」
私の弱々しい声に、凛は力強く頷いた。
「警察は『ごぼごぼ』なんて音、ただのノイズだって笑い飛ばすに決まってるでしょ。それに、もしこのレコーダー自体が呪物だったら?中途半端に手放す方がもっと危ないに決まってる。寧々が名指しで譲り受けた以上、寧々自身でケリをつけるしかないんだと思う」
凛はテーブルの上の未再生のレコーダー5つを指差した。
「残りはあと5つ。この中に、おじいさんが何をしようとしていたのか、どうして寧々にこれを遺したのか、その答えが絶対に沈んでるはず」
「……聞くの? これ以上」
恐怖で指先はすっかり冷え切っていた。だが、心の奥底では分かっている。ここで逃げ出せば、あの「ごぼごぼ」という水音は、一生私の脳内に付き纏うだろう。祖父の真意を知らなければ、私は永遠にこの見えない沼から抜け出せないのだ。
「……凛、付き合ってくれるよね?」
縋るように、それでも決意を込めて見つめ返すと、凛はニヤリと口角を上げた。
「当たり前じゃん。こんな最上級のオカルトを前にして途中で降りるわけないでしょ。それに、今更親友が恐怖に溺れかけてるのを黙って見てるなんてできないしね」
凛の言葉に、少しだけ肩の力が抜けた気がした。一人じゃないという事実が、今は何よりも心強い浮き輪だった。
「……ありがとう。じゃあ、次……5つ目を聞こう。おじいちゃんが私に何をさせたいのか、絶対に暴くんだから」
私はゆっくりと手を伸ばし、5つ目のボイスレコーダーを引き寄せた。
冷たいプラスチックの感触は、まるで水底から伸びてきた死者の手のようだった。私は深く息を吸い込み、再生ボタンを強く押し込んだ。




