1話 心を落ち着かせるハニーバタークッキー
「お兄ちゃん。何度も言ってるけど、聖剣を傘立てに突き刺すのはやめてってば」
年中ぽかぽかした春の陽気が漂う『カフェ・ド・ベール 』の店内に、私の呆れた声が響く。
格子窓から差し込む柔らかな木漏れ日の中で、チカチカと不穏なほどの神聖な光を放っているのは、白銀の鞘に収まった剣。
美術品としても価値がつけられないほどの、世界に一本しか存在しない伝説の武器だ。
それが、木製の傘立てに、事もあろうに真っ直ぐ突き刺さっている。
「大丈夫だよ、ニナ。この聖剣イノセント・ベールは、神の加護によって錆びることはない。傘の水滴くらい、聖なる輝きで一瞬で蒸発するさ」
そう言って、一点の曇りもないイケメンで爽やかな笑顔を浮かべるのは、私の兄、アレク。
ほんの数ヶ月前、世界を滅ぼそうとした大魔王を討伐した、人類最高峰の英雄――つまり、世界最強の『勇者』様だ。
だけど、平和になった今の世界に、命を懸けて戦う相手なんてどこにもいない。
魔王城から帰還した日の夜、燃え尽きたように自室のベッドで一日中ゴロゴロしながら、「……俺、明日からどうやって生きていけばいいんだろう……」と呟いた兄の、あの酷く寂しそうな横顔が今でも忘れられない。
戦うことしか知らなかったお兄ちゃんに、ただの優しいお兄ちゃんに戻れる場所を作ってあげたい。
戦いの血の匂いではなく、焼き立てのお菓子の匂いに包まれて、ゆっくりと心を休めてほしい。
そう思って、私はこののどかな街の路地裏に、小さな喫茶店をオープンしたのだった。
「錆びるかどうかの問題じゃないの! 他のお客さんが見たら、強盗でも入ってきたのかと思ってびっくりしちゃうでしょ。ほら、早くエプロンに着替えて。明日予約のケーキ作るから買い出しお願いね」
「わかった! ニナに頼まれるなら、地の果て、世界の果てまででも行って来るよ!」
私の言葉ひとつで、兄の顔がぱあっと明るくなる。
重度のシスコンであるお兄ちゃんは、世界を救った最強の力を、今は私の店の皿洗いや買い出しのためだけに全力で使っている。
アホだなぁと思いつつも、その真っ直ぐな好意が、妹としてはちょっとだけ誇らしくて、面と向かっては言えないけれど嬉しかったりする。
――でも《《顔だけ》》は整ってるのよね……
兄がフリルつきのピンクのエプロンを嬉々として身にまとったところで、カランコロン、とドアのベルが小気味よい音を立てた。
「いらっしゃいませ!」
私がとびきりの笑顔で迎えると、入ってきたのは、いつもカウンターの隅に座る常連の老紳士、アルベールさんだった。
ただ、今日のアルベールさんはいつもより少し肩が落ちていて、眉間に深い皺が寄っている。
床を見つめたまま、白くて立派なあご髭を何度もさすり、重いため息をつく姿に、私は胸がきゅっと痛んだ。
「やあ、ニナちゃん。今日も少し、心を休めに来たよ」
「お疲れ様です、アルベールさん。今日はアルベールさんにぴったりの、とっておきの『魔法のおやつ』がありますよ」
私はふふっと微笑み、足早に厨房へ向かう。
私にはコーヒー豆を一番いい香りに焙煎したり、お菓子をサクサクに焼き上げたりする『生活・調理魔法』の才能があった。
地味かもしれないけれど、私は自分のこの小さな魔法が大好きだ。
だって、誰かのお腹と心を、こんなにもダイレクトに満たすことができるのだから。
――美味しくなぁれ、美味しくなぁれ……
目を閉じ、指先をパチパチと鳴らして、心を込めて魔法の火力を調整する。
私の魔力がオーブンを包み込むと、内部の温度が均一に、完璧なグラデーションを描いて上がっていく。
やがて、特製の『ハニーバタークッキー』が、じゅわじゅわと蜜を弾けさせながら最高に美味しそうなキツネ色に焼き上がっていく。
それと同時に、甘くて香ばしい、嗅ぐだけで張り詰めた心がゆるんでしまうような香りが、一瞬で店内に広がった。
「お待たせしました。淹れたてのカフェオレと、焼き立てのクッキーです。温かいうちにどうぞ」
カウンターにそっとお皿を差し出す。
アルベールさんはまだ少し暗い顔をしながらも、促されるままにクッキーを指でつまみ、一口、サクッと小気味よい音を立ててかじった。
その瞬間、アルベールさんの目が丸くなる。
トパーズ色の瞳にぱっと光が灯り、凝り固まっていた眉間の皺が、見る見るうちに解けていくのがわかった。
「……おお、これは素晴らしい。上質なバターのコクと蜂蜜の甘さがじんわりと身体に染み渡って、疲れが、すうっと溶けていくようだ……」
「よかった」と、私も心の底からホッとして胸を撫で下ろす。
私の調理魔法は、食べた人の活力をほんの少しだけ引き出す効果がある。
でも、それ以上に、アルベールさんが「美味しい」と思ってくれたその気持ちが、彼自身の心を救ったのだ。
美味しいお菓子と温かい飲み物は、どんな上級の回復魔法よりも優しく人を癒やしてくれる。
「ニナ! 言われた通りの最高級の小麦粉と、ついでに隣の国でしか採れない幻イチゴを買ってきたぞ!」
背後から、凄まじい突風が店内に吹き荒れた。見ると、ピンクのエプロンをマントのようになびかせたお兄ちゃんが、誇らしげにイチゴの籠を掲げている。髪が少し乱れているのは、音速を超えて移動してきたからだろうか。
――……うん、隣の国?
あまりの破天荒ぶりに頭を抱えたくなったけれど、籠の中のイチゴは、朝露に濡れてキラキラと真っ赤な宝石のように輝いている。
これなら、最高のケーキが作れそうだ。
「お兄ちゃん、おかえり。すっごく良いイチゴだね、ありがとう」
「ふふん、これくらい勇者にとっては朝飯前だよ! ニナに褒められるのが、俺の最高の報酬だから!」
お兄ちゃんは犬のように嬉しそうに微笑み、私の頭を大きな手でぽんぽんと撫でる。
その手は少しゴツゴツしていて、かつて重い剣を握り締めて世界を救った証拠でもある。
けれど今のその手は、優しく妹の髪を梳くためだけに使われていた。
「……もう、子どもじゃないんだから」
気恥ずかしさに身をよじりながら、私はあえてそっけない口調で、手元にある真っ赤な果実を差し出した。
「はいはい、じゃあ次は、その幻のイチゴで、明日のケーキを手伝ってくれる?」
私が甘酸っぱい香りの漂うボウルを差し出すと、兄は「任せてくれ」と言わんばかりに胸を張った。
しかし、彼が腰の鞘から引き抜いたのは、見慣れた万能包丁ではなく、神々しい光を放つ伝説の聖剣だった。
「喜んで! この聖剣で、イチゴを分子レベルで完璧にスライスしてみるよ!」
「だから、聖剣を包丁代わりに使わないでってば!」
呆れる私の声が、甘い小麦粉の香りが満ちる厨房に響く。
ちょっとズレてる元勇者の兄と、誰かを笑顔にしたい私の魔法のスイーツ。
この小さくて愛しいカフェの日常は、今日もこうして、賑やかに、そしてどこまでも穏やかに始まっていく。




