第10話 別れの日
八月の終わり、夏の空気がまだ重く漂う朝。
蝉の声は相変わらず喧しく鳴いているのに、俺の心は静まり返っていた。
――今日、東雲が転校する。
その事実だけが頭の中をぐるぐると回り続け、胸を締めつける。
教室は普段と変わらぬざわめきに包まれていた。
けれど、そのざわめきの中心には東雲がいた。
「今までありがとうね」
「元気でな」
「新しい学校でも頑張れよ」
クラスメイトたちが口々に声をかける。
東雲はひとりひとりに丁寧に頭を下げ、微笑んで返していた。
その笑顔が痛いほど胸に刺さる。
もう二度と、この教室で彼女を見ることはできない。
休み時間、俺は机に座ったまま動けなかった。
周囲は「プレゼントだ」と色紙や小物を渡しているが、俺だけ何も用意できなかった。
――渡す言葉さえ見つからない。
そのとき、東雲が俺の机の前に立った。
「……これ」
小さな封筒を差し出してきた。
「手紙。あとで読んでほしい」
「……ああ」
受け取っただけで、喉の奥が熱くなる。
放課後、最後のホームルームが終わると、教室の空気はどこか名残惜しさで満ちていた。
東雲は黒板の前に立ち、担任に促されて最後の挨拶をした。
「短い間でしたけど……みんなと一緒に過ごせて、本当に楽しかったです。ありがとうございました」
静かな拍手が教室に広がる。
彼女は深く頭を下げ、そのまま荷物をまとめ始めた。
校門へ向かう途中、俺はついに声をかけた。
「なあ……」
東雲が振り返る。
「最後に、ちょっとだけ一緒に歩いていいか」
「……うん」
校門を出て、駅へ向かう道。
いつもなら何気なく歩いたはずの道が、今日は一歩ごとに重かった。
「……行っちゃうんだな」
「うん。行きたくないけど……仕方ない」
「……ずるいよな」
「なにが?」
「好きだって言って、俺をこんなに揺らして……置いていくなんて」
そう言うと、東雲は立ち止まった。
そして、小さく震える声で答えた。
「……私だって、ずるいよ。本当は、離れたくない」
駅のホーム。
電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。
「時間、きちゃったね」
東雲の目が潤んでいる。
俺も必死に堪えていた。
「なあ」
俺は最後の勇気を振り絞った。
「いつかまた会えるよな」
「……うん。絶対に」
そう言って、彼女は笑った。
泣きそうなのに、それでも笑おうとしていた。
電車がホームに滑り込み、扉が開く。
東雲は一歩、車内に足を踏み入れる。
その直前、俺に向かって小さく呟いた。
「……ありがとう」
次の瞬間、扉が閉まり、電車が動き出す。
窓越しに見えた彼女の姿が遠ざかっていく。
俺は手を伸ばした。
届くはずのない空へ向かって。
電車が完全に見えなくなったとき、膝が震えて、その場に立っていられなくなった。
――ああ、本当に行ってしまった。
胸の奥が空っぽになったような感覚のまま、俺はしばらく動けなかった。
夜、机の上で封筒を開いた。
几帳面な字で書かれた手紙には、こう綴られていた。
『あなたがいてくれたから、私は自分を嫌いにならずに済みました。
もしまたどこかで会えたら、そのときは胸を張って言います。
――私は、あなたが好きです。』
涙がこぼれ落ちる。
俺は声にならない声で呟いた。
「……俺もだよ、東雲」
その日、世界が少しだけ色を失った。
けれど同時に――再会を願う強さが、心に芽生えていた。




