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「君を愛することはない」から始まるまさかの溺愛結婚生活  作者: 桜 祈理


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15/23

15 悪役令息

 馬車の中で言い合いになってから、私たちの生活は結婚当初に逆戻りしたかのように素っ気ないものになってしまった。



 さすがに食事の時間は顔を合わせるけれど、王宮の行き帰りもばらばらの馬車だし(というか、クライド様が私の都合に合わせなくなった)、毎日のように浴びていた愛の言葉も過剰なスキンシップも何もない。必要最小限のやり取りはあるものの夫婦の寝室にクライド様が来ることはなくなり、かといって自室で寝るのもなんだか味気なくて、私は広いベッドを寂しく独り占めし続けている。



 ぽっかりと穴が開いたような物足りなさに自然とため息が増え、イアンとサマンサ、それにシーラまでもが心配そうにちらちらとこちらをうかがっていることも増えた。




 でもまあ、喧嘩したとはいえクライド様の気持ちもわからないではない。




 幼い頃から長く仲違いしてきた父親と継母、そして妹たち。特に父親に対する怒りや哀しみ、苛立ちや葛藤は今もクライド様の中でくすぶり続けているのだろう。だから何の罪も落ち度もない妹たちにさえ、本来の温かさを向けることなどなかったのだ。


 気持ちはわかる。わかるんだけど、でもあの人、ああ見えて優しい人なのよ。最初こそ、傍若無人で人の気持ちのわからない冷血漢だと思っていたけど、私が初めてあの人の前で泣いたとき「もう我慢しなくていい」なんて言ってくれるくらい、本当は人の心の機微に聡い人なんだと思う。だからもしもステイシー様が不本意な結婚を強いられるとなったら、きっとどうにかしてあげられなかったのかなんてあとになって思い悩むはずなのよ。それを避けたかったの。避けたかったんだけど。




 でも今回、本当にジャレッドのことは一ミリも頭になかった。それをあんなふうに言われるとも思わなかったし、そのことに自分自身が一番驚いている。



 いつの間にか、私の中で確実に、ジャレッドのことは過去のものになりつつある。



 その事実を意外なほどすんなり受け入れていることに、私は気づいていた。






 そんなある日。


 突然のレスリー様の呼び出しで王宮を訪れた私は、レスリー様の私室で可愛らしい令嬢二人と顔を合わせた。



「この子が私の末の妹、マージョリー。そしてこちらが、あなたの義理の妹のステイシーよ」



 紹介されたステイシー様は、クライド様にどこか似た面差しの見目麗しい令嬢だった。薄い蜂蜜色の髪に明るい空色の瞳は、クライド様とは違って人懐こい愛らしささえ感じられる。学園のみんなが憧れるのも素直に頷けた。



「はじめまして、ステイシー様。クライド様の妻、アナイス・フィンドレイです」

「はじめまして、お義姉様。ステイシー・フィンドレイと申します。結婚式には出席できず、失礼いたしました」

「いいのいいの。どうせあなたのお兄様とお父様が仲違いしてるせいでしょう? とばっちりを受けるのも大変よね」

「え、あ……」

「ステイシーったら、そんなに硬くならなくてもいいのよ。アナイスはこの通り、とても気安くて話しやすい人だから」



 レスリー様がふふ、と穏やかに微笑んでくれたおかげで、どこか硬直していたその場の空気が徐々にほぐれていく。



「実はね、マージョリーから大変な話を聞いたものだから。あなたにも来てもらって直接話を聞いてもらおうと思ったのよ」



 レスリー様の言葉に、マージョリー様が真面目な顔をしてうんうんと頷いている。



 レスリー様とは髪の色も目の色も違っているマージョリー様だけど、天真爛漫な雰囲気はレスリー様そっくりでちょっとほのぼのしてしまった。



「大変な話、ですか?」

「そうなの。この前話したバルテルス公爵令息のことよ。いよいよ強硬手段に打って出たらしいの」

「強硬手段?」

「バルテルス公爵令息が、取り巻きたちを使ってユーリに怪我を負わせたのですって。バルテルス公爵令息を害そうとしたとかなんとか、言いがかりをつけて。もちろん、ユーリがそんなことするはずないじゃない」

「そうです。ユーリは絶対にそんなことしません。むしろ、マウノ様には歯向かったり手を出したりしないようずっと我慢しているんです」



 思わずといった様子で説明を付け加えるステイシー様は、悲痛な表情で悔しげに涙を浮かべている。



「それで、ユーリは左腕を骨折する大怪我を負ってしまったそうなの。でもね、それだけじゃないらしいのよ。そうでしょう? ステイシー」

「……はい」



 今にも泣き出しそうな表情だったステイシー様は、何かを思い出してか俄かに緊張し、体全体を強張らせた。



「実は四日前、従者を伴って町に買い物に行ったんです。ユーリが自宅で療養しているので、そのお見舞いの品を買おうと思って……。あちこちいろんな店を見ているうちにあまり人気のない道に出てしまったのですが、そしたら突然知らない男たちが現れて狭い路地の方に連れて行かれそうになって……」

「え!?」

「幸い、近くにあった店の主人が気づいてくれて、男たちを追い払ってくれました。すぐに従者も駆けつけて事なきを得たのですが……」

「もしかして、その公爵令息が?」

「確証はありません。でも知らない男たちの中に一人だけ見覚えのある人がいて……。マウノ様の従者と一緒にいるのを見たことがあるのです」

「まじか」



 私のつぶやきに、マージョリー様がその雰囲気には似つかわしくない厳しい顔つきをしたまま、またうんうんと頷いている。



「ステイシー様を誘拐しようとしたんですかね?」

「わからないけど、その可能性はあるでしょう。誘拐して、何をしようとしていたのか考えただけでもぞっとするわ」

「このままでは、ステイシーの身にどんな危険が及ぶかわからないと思って、すぐにお姉様にお知らせしたのです」

「私もこの話を聞いて、すぐにヴァージル殿下にお伝えしたのよ。でも殿下は、下手に動くと国際問題になりかねないから自分には何もできないとおっしゃって」




 確かにそうだろう。



 ステイシー様の誘拐未遂の話には、証拠がない。「暴漢に見覚えがある」というステイシー様の証言だって、単なる記憶違いを指摘される可能性があるから証拠にはなり得ない。



 ユーリ様の怪我のことだって、こちらには非がないと主張したところで向こうの言い分が覆ることはないだろう。もしかしたら、言い逃れできないでっち上げの証拠すら用意しているかもしれない。性悪で悪辣と噂の公爵令息のことだ、まじでやりかねない。



 そんな曖昧な状況の中で殿下や妃殿下、あるいはフィンドレイ公爵家が正式に抗議なんてしようものなら、それこそ言いがかりだなんだと詰め寄られて外交問題に発展してもおかしくない。いやむしろ、それを狙ってるのかも。そんなことになったら、こちらの過失や軽率さを理由にしてステイシー様とバルテルス公爵令息との婚姻を無理強いしてくるだろうし、もっと最悪なことには国同士の関係が悪化したり我が国全体の不利益になったりすることだってあり得る。




「殿下や妃殿下、あるいはフィンドレイ公爵が表立って何らかの動きを見せてしまったら、そこで足元をすくわれかねません。すべては状況証拠に過ぎず、確固たる証拠はありませんから」

「じゃあ、どうしたらいいの? このままじゃステイシーは……」



 レスリー様の沈んだ声が言い淀むのを聞きながら、私は考えていた。




 王族の方々や我が国で要職にあるお義父様は、大物すぎて動けない。国を代表する人物の動きはそのまま公式見解と見做されて、向こうに付け入る隙を与えてしまう。



 だったら、もっと小回りが利いて水面下で動く術に長け、エドフェルト王国との外交に詳しい人がいたら……。




 ん?




「レスリー様」

「なに?」

「フェリクス様の留学先って、もしかしてエドフェルト王国だったりします?」

「そうだけど、それが何か……。あ」

「そうです。フェリクス様です。向こうにいた期間がそれなりに長いのなら、あちらの国の事情にも詳しいはずです。思い切って相談してみたら、何かいい案が見つかるかもしれません」





 その一言で、レスリー様はすぐさまフェリクス様に面会できるよう手配してくれた。



 フェリクス様は我が国の外交を担うヴィンセント侯爵を補佐する立場として、王宮に出仕している。私はそのまま、フェリクス様の執務室を訪ねることになった。




 恐る恐る執務室に顔を出すと、例のコミュ力おばけはにこやかに小躍りしながら近づいてくる。



「やあ、アナイス様。君の方からわざわざ会いに来てくれるなんてね。今日は俺が生まれてから一番の記念日になりそうだよ」

「あー、そういうの、今は間に合ってますので。それよりレスリー様からお話があったかと思うのですが」

「せっかちだねえ」



 フェリクス様はやれやれといった様子で無造作にソファに座ると、私にも座るよう目配せをした。


 それから、余裕ぶった表情を見せて声高に話し出す。



「もちろん、レスリー様から聞いてるよ。まあ、その前から知っていたけどね」

「知ってらしたんですか?」

「そりゃあね。外交にしろ内政にしろ、政治に必要なのは情報だよ? いくら学園内部のことだと言っても、あれだけ派手な動きがあればこっちの耳にも届かないわけがない。バルテルス公爵令息の暴挙も、ユーリの怪我も、ステイシーの誘拐未遂の件もね」

「そこまでご存じなら、話は早いですね。この件に関して殿下やお義父様が表立って動くのは難しいですし、でもこのままだとステイシー様はもっと危険な目に遭いかねません。エドフェルト王国に留学経験があり、我が国の外交を担うヴィンセント侯爵家のあなたなら、この状況を打開する良い策をお持ちなのではとご相談に参りました」



 その爽やかな笑顔に真っ直ぐ目を向けると、フェリクス様は何かを企むかのようににやりと笑った。


 そして徐に、身を乗り出す。



「確かに、俺だったらなんとかできると思うよ。良い策がある」

「ほんとですか?」

「ああ。ただ、この策には君の協力が必要不可欠なんだけど」

「私ですか? お手伝いできることがあるならなんでもしますが」

「まあ、君というか、正確にはサエル・アレステルの協力なんだけどさ」

「は?」

「サエル・アレステルの正体、君なんだろう?」

「なんだって?」



 私が声を上げるより早く、真後ろで聞き覚えのある低い声がした。



 振り返るまでもなく、どういうわけだか現れたクライド様がドアの前で固まっている気配が、した。










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