13 不穏な影
「そろそろやばいわよね」
「ですね」
私室の文机に向かいながら、私はすぐ横に立つシーラと困ったように顔を見合わせる。
アリシアとジャレッドの結婚式から、すでに数週間。
あれ以降、私とクライド様は何故か同じベッドで眠るようになってしまった。
屋敷に帰ってくるなり、クライド様が「俺はもう、アナイスがいないと安眠できない」とか当たり前のように言い張るんだもの。
「今までは私がいなくたって普通に眠れてたんでしょう?」
「そうだが? しかし一度でも君をこの腕に抱いて眠ってしまったら、もう以前の俺には戻れないとわかった」
「なんかいろいろと誤解を生みそうな表現はやめてください」
「君だって、俺の腕の中であんなに無防備な顔をしてぐっすり眠っていたじゃないか」
「だからそういう言い方は誤解されるでしょ!」
後ろに控えているイアンとサマンサは喜びのあまりむせび泣き、シーラはうんうんと頷きながら小さくガッツポーズをしている。
いや、だから。違うから。
それでもクライド様の暴走に抗い切れず、最後は根負けしてしまった。
タイミングよく(いや悪いのか?)、私が「旦那様」呼びから「クライド様」呼びになったことも、その暴走に拍車をかけてしまったのだと思う。
ただ、今のところまだ辛うじて、そういう関係にはなっていない。なんとか土俵際で踏みとどまっているというところ。
にもかかわらず、「できれば『様』を取って呼んでほしいんだがな」とか言いやがる。ちょっと図々しいのよね、最近。注文が多いというか。完全に調子に乗っている。
その後も三日にあげずレスリー様から呼び出しがあるし、クライド様は騒々しいしで結婚して早数ヵ月、ほとんどと言っていいほど何も書けていないというのが目下の緊急課題である。
レスリー様でさえ、
「早くサエルの新作を読みたいのに、近頃ちっともその手の話を聞かないのよね。一体どうしたのかしら」
とか本人を目の前にして嘆く始末。いや、あなたがしょっちゅう呼びつけるからでしょう、なんて言えるわけもない。
「さすがにロランも、そろそろ、と言っていましたし」
「だよねー。まずいわ」
現状、私が執筆途中なのは「博識令嬢」シリーズの第六巻と、新作の学園ものである。ただ、この新作の方は両片想いのじれじれ物語を書こうと思ったのになんかこう、しっくりこなくてあまり進んでいない。
「博識令嬢」の方は、予定の三分の一ほどで止まっている。
さっさと書き上げなくちゃと思うものの、そう思えば思うほど手につかないというかやる気にならないというか。常に頭の隅っこにこびりついて離れないわりには、実際のところここへ来てから三行くらいしか書けていないのだから困ったものである。
「あー、こういうのスランプっていうのかしら」
「こちらに来てからなんだかんだとお忙しかったせいでしょう。じっくりと腰を落ち着けて書けるような環境ではありませんし」
「確かにね。実家と違って、部屋で書こうにも見つからないようにしなきゃと思うと気が散って、集中できないのよね」
「そういえば、以前イアン様がこの屋敷にはあまり使われなくなった書庫があると言ってました。そこをお借りするのはどうでしょう?」
「書庫?」
すぐにイアンに確認すると、確かに一階の奥の方に、今ではほぼ使われなくなった古めかしい書庫があるとのことだった。
クライド様が公爵邸からこの屋敷に移るとき、執務室近くの空き部屋を改装して新たに立派な書庫を造ったらしい。そのせいで、もともとあった書庫は使われていないんだとか。
イアンに案内してもらって早速見に行くと、それほど広くない部屋の中には何台もの本棚が整然と並んでいた。ところどころまったく本が置かれていないのは、新しい書庫の方に移動させたかららしい。
そして理想的だったのは、少し奥まったところにわりと広めの机があったこと。
これ、ちょっと隠れて、一人静かに過ごすには最適の場所じゃない?
資料として使えそうな本もいくつか見つかり(さすがは公爵家)、執筆活動に専念するには文句なしだった。
「というわけで、次期公爵夫人としての執務の際には古い方の書庫を使っても構いませんか?」
いつものようにベッドの上でクライド様の隣に座りながら、ちょっとわざとらしく小首を傾げてみる。
眠る前にはここで話をするのが、あの結婚式の翌日からの日課になっていた。
「書庫? ああ、一階のか?」
「はい」
「俺が次期公爵夫人としての務めをしろとうるさく言ったからか? あれはもういいんだ。君だって事あるごとに妃殿下に呼び出されて忙しいだろうし」
「それはそうですけど、毎日というわけじゃないですから。屋敷の管理のこととか、今後のことを考えると少しずつやっていかないとと思って」
「……それは、俺との未来を考えてくれているということか? とうとう俺の気持ちに応えてくれる気になったのか?」
「いえ、違います。好き嫌いはともかく、妻としてここにいる以上そうした執務は必要になりますから」
私の塩対応にがっくりと項垂れ、いじけたような顔をしながらクライド様はベッドの上で枕にもたれる。
「この家で、アナイスの行動をあれこれ制限する者などいない。好きな場所を好きなだけ使っていい」
「ほんとですか?」
「ああ。ただ、君の行動を制限はしないが、俺以外の男に目を向けるのだけはやめてほしい。ジャレッドのことは今はまだ仕方がないとしても、君にほかの男を好きになったなんて言われたら俺は立ち直れない。いやその瞬間呼吸が止まる。即死だな」
「そんな、大袈裟ですよ」
「大袈裟なわけあるか。俺がどれだけ君を好きだと思ってるんだ」
「あー、その点については、いまだご期待に沿えず申し訳ないです」
「まあいいさ。初っ端から致命的な失敗をしたのは俺の方だしな。時間はたっぷりあるし、気長に、根気強く攻めていくしかない。それに」
と言って、枕にもたれながら横になっていた旦那様は両手を大きく広げてみせる。
「そろそろおいで」
「えー」
「早く」
いつものように、にこやかに笑いながらも有無を言わせない圧を漂わせる。逃げることもできず、結局はおずおずとその腕に潜り込むしかない。
「こうやって、君を抱きしめられるのは俺だけの特権だからな」
満足げにつぶやく声を聞くと、私自身も抵抗する気力が奪われてしまう。
それにクライド様の腕の中に収まると、何の憂いも感傷もなくぐっすりと眠れることだけは確かだった。
*****
一階の書庫の使い心地は抜群だった。
イアンに頼まれた事務仕事をこなすフリをしながら(いや、そっちもちゃんとやってはいるけど)、適度に隠れて執筆活動に従事するには持ってこいの場所だった。
おかげで「博識令嬢」の方はほとんど書き上げた。あとは終章を残すのみというところまで来たから、ちょっとほっとする。
しかも「博識令嬢」の第六巻は、各国を飛び回っていた主人公の公爵令嬢とその婚約者(正確にはレスリー様が言ってた通り、五巻で結婚したから夫になるんだけど)が自国の王太子の側近となって活躍する展開になっている。これには、レスリー様に呼ばれて王宮に通っていた最近の経験が大いに役立った。なんせ実際の王宮の様子なんて、わかりっこないんだもの。すべて想像しながら書くしかないと思っていた部分が、かなりのリアリティを持って書けたのだからレスリー様には感謝しかない。
ちなみに、新作のじれじれ両片想いの学園ものの方はちっとも進まず、半ば諦めムードである。こっちはそもそもロランに「短編も書いてみたら?」なんて言われて構想を練ってみたものの。書き始めてみたらどうしても長くなっていきそうな気配がして、なんだか筆が進まない。私は案外短編が向かないらしい。
こうなったら、当初の予定通り私のこの結婚自体をネタにして書くしかないのでは? などと思ったりもする。いや、書かないけど。ていうか途中まではまだ良かった。ネタとしては。でも最近のクライド様の溺愛ぶりに関しては、恥ずかしすぎて書けるもんじゃない。
そんなこんなで作家活動の再開が順調に軌道に乗りつつあったある日、レスリー様に呼ばれた私は気になる話を耳にした。
「クライドから、ステイシーについて何か聞いてない?」
「……ステイシーって、誰ですか?」
あんなにひどかった悪阻もすっかりおさまり、だいぶお腹の膨らみが目立つようになってきたレスリー様は目を見開いた。そして「やっぱり聞いてないのね」と苦り切った表情をする。
「クライドの下の妹よ。今、学園の二年生なんだけど」
「あー、そういえばそんなお名前でしたね。クライド様って、ご家族の話は一切されないので」
「やっぱりそうなのね」
眉を顰め、珍しく険しい表情をするレスリー様。
「公爵家の詳しい内部事情については、知っているの? 家族のこととか」
「結婚してすぐ、執事から大まかな話は聞いています。お父様である宰相様やお義母様、妹たちとは折り合いが悪いとか」
「そうなのよ。折り合いが悪いというか、半ば絶縁状態に近いのよね」
「え、そんなに? なんでそこまで拗れてるんですか?」
「クライドも堅物だけど、現宰相のダグラスはそれに輪をかけて融通の利かない頑固者でね。公爵夫人や妹たちはその対立に巻き込まちゃってるのよね。ダグラスとクライドは宰相と宰相補佐という役割上、緊密な意思の疎通があってしかるべきなのに、必要なやり取りはすべて部下を通して直接接点を持たないという徹底ぶりで」
「あらま」
「でね、そのクライドの下の妹、ステイシーがちょっと面倒なことに巻き込まれてるらしいのよね」
このいわくありげな話がまさかあんな形で自分の身に降りかかってくるなんて、このときの私には知る由もなかった。
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