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第一話・焼肉は常に間違えない



「拝啓、兄上様、兄嫁様、私はお肉旅にゆきます、探さないでください」




 架空の日本、架空の江戸時代。

 薩長同盟による叛乱を鎮圧し、徳川の世は25代を数え、世は天下太平。

 関東の田舎道、中山道などの大きな道に通じる無数の小さな道のひとつ。

 昼下がりである。

 行き交う旅人たちの足も春の日差しにどこか軽く見え、どこまでのんびりした光景だったが、

「あばれ牛だぁ!」

 その声で全てが一変した。

 狂ったように走る牛が、道行く人たちを跳ね飛ばし、あるいは慌てて逃げるのに一切気にかける様子なく、口から泡を吹き、ひたすらにうめき声とも咆哮とも取れる鳴き声をあげながら突き進む。

 その主らしい農民が必死にあとを追いつつ、涙目になって叫ぶ。

「ベコが、ベコがおかしくなっちまっただぁ! 止めてくれええ、止めてくれええ!」

 牛はのんびりと草を食む様子や、畑仕事に使われているゆったりとした印象が多く人の脳裏に残るが、実際には走れば大した速度になる。

 しかも街道のこの辺りは、丁度道幅が狭くなり、逃げようにも片方は山肌、片方は崖という悪い立地だ。

 しかも運悪く巡礼の集団がそこにさしかかっていた。

「暴れ牛だ」の声にみな慌てふためき、年端も行かぬ幼子と疲れ果てた母の巡礼が逃げ遅れた。

「お母ちゃん!」

 母親にすがる娘を足をくじいた母親は必死に逃そうとするが、大人たちの大騒動に気を呑まれた娘はその胸にしがみつく。

 むろん、文字通り血眼になった牛に、そんな事情が分かるはずは無く、真っ直ぐに突っ込んでくる。

 そして巡礼の親子にその鋭い角の先端を突き入れようとした瞬間、ぶらりと巨漢の素浪人が立ちはだかると、その角を両手で握り、ぐるりと首を一回転させた。

「ぬぅんん!」

 濡れた雑巾で青竹を包み、思いっきり大岩にたたき付けたときの音。

 その瞬間に首をネジ折られ、牛は一瞬で絶命した。

 だが親子は助かった。

「べこおおおおっ!」

 ようやく追いついて、牛にすがりついて泣く農民に、素浪人は優しく声をかける。

「お前の大事な牛をすまぬな」

「お侍様、怒らねえので?」

 ぽかんと農民は泣くのも忘れて素浪人を見上げた。

 浪人はずんぐりとした体型で、髪は縮れ気味で、茶筅髷、太い眉にぎょろりとした目つきだが妙な愛嬌のある顔立ちだ。

 怒ればきっと恐ろしいが、こうして優しい笑みを浮かべていると頼もしい人にしか見えない。

 それはそれとして、この素浪人の態度は農民にとっては意外極まる話だった。

 こういう場合の牛馬が殺されてしまうのは当然としても、それがサムライ、さらにローニンだった場合「よくも牛馬の血で我が刀を」とか「我が手を煩わせおって愚か者」と拳固の一発、悪くすれば「手数料」ないし「お前の娘をひと晩俺に貸せぐへへへ、なんなら拙者お主でもかまわぬぞぐほほほ」ぐらいはいうものだからだ。

「何を言うのだ」

 サムライ……素浪人のほうが呆れた顔になった。

「牛馬といえばサムライにとっての家屋敷や腰の刀と同じ、手塩にかけて育てて、親から子に受け継がせるものだ、それを殺してしまったのだ、やむを得ないこととは言え、威張れることでは無かろう」

 浪人の目は優しく、農民は胸の中に抱いていた複雑な思いが春の氷のようにとけ消えるのを感じた。

「へえ、ですがベコが人を殺してしまえば同じ様に、もっと酷く殺されてたと思いますだ」

 素直にそういう言葉が出る。

「いや、そういってくれるとありがたい」

 ぽん、と素浪人は農民の肩を叩いた。

「さて、この牛の供養をせねばならぬ。まずこの牛が何故こうなったかだが……」

 素浪人はそういって牛の耳を調べた。

「ああ、この蜂が刺したのだ。可哀想になあ」

 この当時の日本ではままあることである。

 牛馬はこの手の突然の事に弱い。特に牛は闘牛という見世物が成り立つぐらい、恐怖や痛みに対して過剰反応を引き起こす。

 それに巨体とそれを維持する莫大な体力が加わるとこういう悲劇に結びつくのだ。

「これがお主の仇じゃ」

 針を刺したままの蜂の亡骸を農民に手渡し、素浪人は

「では供養をしよう、この辺で血を流しても大丈夫な場所はないか」

 と訳の分からぬことを口にした。

「へ?」

「お前は知らぬかもしれぬがな、牛馬、鶏、猪豚の類いはそのまま埋めてはならんのだ、殺した以上、喰わねばならぬ、喰わずに埋めれば無益な殺生となるからな」

「…………はあ?」

 聞いたこともない怪しい理論であったが、先ほどの優しい言葉に農民はすっかりこの素浪人を信用している。

「つ、つまりどうなされるので?」

「ベコを皆で食すのだ。なに、お前に肉をさばけとは言わぬ、肉を切るのは我らサムライが本職じゃ、人の肉も獣の肉も変わらぬ」

 これまた周囲に別の侍がいれば大悶着どころから決闘騒ぎもやむを得ないところだが、幸か不幸かこのとき、街道にサムライはこの素浪人ただひとり。

 だから周囲の連中も農民も「そういうものだろうか」と信じ込んだ。

 何しろ相手は素浪人とはいえサムライなのである。

「え、えーとではここの近くに三年前に住職さんがオッ死んで荒れ寺になってる所がごぜえますだ」

「ではそちらへ行こう」

 そういうと、素浪人はベコの身体の下にするりと潜り込み「よっこらせ」という軽いかけ声と共に数百キロの牛を肩に担いで立ち上がった。

 考えてみれば突進してくる牛を受け止め、その首をねじ折った男なのだ。

 これまた農民は恐怖どころか「なるほどひょっとしたら神様の使いもしれぬ」と思い込んだ。

 そして浪人は村の外れにある荒れ寺まで牛を引きずっていき、釣り鐘が下がっていたお堂に牛を逆さに吊すと血を抜きはじめた。

 本堂の中から赤さびた大きな釜を転がしてきて、それで血を受け、満杯になる度にそれをまた担いで寺の片隅に掘った穴の中に流しこむ。

 夕暮れ時にはようやく血が出きったようで、釜の中の血は増えなくなった。

 そして素浪人は腰に差した刀をすらりと抜く。

 てっきり竹光か、赤鰯(刀が錆びて真っ赤になってる状態のこと)になっていると思っていた農民はその輝きの鋭さに驚いた。

 異様なぐらい分厚く、そして刃は鋭い。

 胴田貫や山姥斬という戦場刀の種類が厚さと頑丈さで有名だが、これはその倍近くある上に先端部分から急に薙刀のように反っている。

 柄もよく見れば普通の刀より拳ひとつ分長い。

 見る者が見れば、鯨を解体するのに使う鯨包丁の変種だと見抜いたかも知れない。

 素浪人はそうしてまず、牛の首を斬り落とした。

 熱した刃物で蝋燭を切るように滑らかに、あっさりと首が下に置いた釜の中に落ちる。

「なにするだ!」

 さすがに農民がわめくが、

「死ねば皆魂は仏、身体はただの入れ物になる。これは人も獣も同じじゃ。だからそれをお前や他の人たちで食して成仏させてやるのだ」

「んな阿呆な!」

「ほう、お主上方の出か。さて儂はアホではないぞ。この牛は死ぬ前に怯え、暴れ牛として恐怖を振りまいて死んだ。これは業になる、業になるから輪廻できぬ、煉獄に落ちる、それでもよいか?」

 血刀をさげて、素浪人はまっすぐ農民を見据えて言った。

「い、いやでごぜえますだ」

「では喰うぞ……とはいえ、牛の肉はすぐには食えぬ。まずは3日ほど待て、俺はここで準備をする、三日後の今頃に、村の皆を連れてここに来い。ベコの弔いをするぞ」

 農民は、いわれるままにこくんと頷いてしまった。


 そして三日後、農民に連れられてきた村人達はまず、米の飯の炊ける匂いに腹を一斉に鳴らした。

 徳川の世も薩長の大謀反を平定したお陰で延命して早500年以上。

 農村でも白米の飯は食べられるようになったが、それでも老人の居る家庭で「薬食い」の一種として数ヶ月に一回が限度だ。


 だが、特に老人達の中にその腹の虫が鳴ったのは別の理由がある。


 そして、村の老人達は白米と牛肉という「薬食いの組み合わせ」に密かな予感を抱いていたのだ。

「おおう、よう来た、よう来た!」

 たすき掛けに鉢巻きを巻いた素浪人がそう言って満面の笑みを浮かべ、両手を広げた。

 その背後ではかつて牛の血を受けた釜が綺麗に磨き上げられ、石を積み上げて作った即席の竈の上で湯気をあげ、さらに隣の竈では寺の隅に転がっていた割れ鐘の欠片が火にかけられて湯気をあげている。

「準備は出来ておる、みな、自分の椀と箸は持ってきておるな? では女衆はあの大釜米飯を皆によそってくれ、わしはこれから肉を焼く」

 言って男は懐から火打ち石のようなものと小刀を取りだした。

 側に幾つも置かれたざるの上に並べられた肉の上でその白っぽい火打ち石のようなものを小刀でり、山椒を振りかける。

「お主らは畑仕事のあとじゃからな、とりあえず味付けを足しておく」

 と訊ねられもしないのに素浪人は言った。

 そして自分の木の椀に、いつの間にか持っていた酒瓶から、どろりとした液体を注ぐ。

「まずは焼肉といこう、まずはこのまま肉を焼いて……」

 そういうと素浪人は割れ鐘の破片の上に肉を置いた。

 じゅう、という音とともになんとも香ばしい煙が立ち上る。

「己の好みにまで焼いたら……喰う!」

 箸で素浪人は肉片を押さえつけ、裏表にして焦げ目が軽く付いたあたりで、肉を引き上げて木の椀にの中身にさっとつけ込み、二、三回中の汁で泳がせるようにすると、口の中に放り込んだ。

 はふほふふふふほほふ。というおかしげな声を上げながら口の中で肉を覚ましつつ素浪人は咀嚼する。

 三十回ほど口を動かした後、ごくり、と飲み込んだ。

 肉を食う、というのは「薬食い」というものであったが、味付けをすると言うことはあまりない。

 肉の匂い消しに山椒をつかうことはあったにせよ、あの白い石の塊のようなものはなんなのか。

「うーん」

 素浪人はぎゅっと目を閉じ、口の端を横にひっぱるような笑みを浮かべてなんども頷いた。

「美味い!」

 そのひと言で、農民達はふらふらと歩き出し、見よう見まねで肉を焼き始めた。

「おおう、何という味じゃろうか!」

 この肉に元、ベコの主だった農民が声を上げた。

「以前、爺様のお相伴で肉を食ったことはあるだが、こんな美味い物だったべか?」

「それはな塩と山椒じゃ、本当はコショウというものがあればよいが今手元に無くてな」

 そんな素浪人の言葉を聞きながら他の連中もまた、素浪人の真似をして焼いた肉を口に放り込む。

「おおう、何という美味さじゃ!」

「これが肉の味っちゅうものだか?」

「魚と違ってなんと濃厚! なんとも美味い! 熱い、肉の汁が、汁が!」

 男たちは口々に言いながら箸を動かし、やがて女達も割って入って食べ始めた。

 素浪人はそんな村人達の様子に目を細めながら、今度はどこからともなく酒瓶に入った液体を、己の椀の中にとろりと注ぎ込んだ。

 醤油を基本にした少し甘ったるくてごまの匂いのする液体。

「よしよし、では次にこのタレに焼いた肉をつけて食べて見ろ、このように、だ!」

「おぉう、なんとおいしい! ひと噛みごとに肉汁が、肉汁が!」

「美味かろう、美味かろう…………ほれ、米の飯も炊けておる、これに乗せて喰うが良い」

「おほうおほう!」

「では次は薄切りにした舌を焼くぞ」

「これはまたこりこりと独特な食感でございますだ」

「では肩の部位だ、太腿の部位だ」

「おほほぅ、おほほほほぅ!」

 いつの間にか村人全員で集まって酒まで出てくる。

「さあ、そこの旅人どの、ここで来合わせたのも何かの縁、さあさお食べ下され!」

 そして村人と通りがかった旅人たち全員で牛一頭はその日のうちに食い尽くされた。

 割れ鐘の上に残った肉の脂に最後に米飯をぶちまけ、卵を割ってかき混ぜて少し焦げたところでまた食べる。

 腹に辛うじて余裕があった者たちもこれで完全に満腹になった。

「いやあ、喰った、喰った、なんとも美味い」

「今夜は精がついたで大変だ!」

「そうだ、楽しいことをして忘れるが良い、ベコもお前たちに食べられて満足だろう。土に丸ごと埋められ、腐り果てるよりも、こうして美味く食べて貰って成仏した方が良いのだ」

 皆が腰を下ろして腹を撫でている中、素浪人はニコニコとたすきを解いて懐にしまった。

「はい、お侍様、ありがとうございますだ」

「干し肉も作ってある」

 そう言って素浪人は懐から細縄で縛り上げた薄肉の塊を取りだして農民に渡した。

「人に四十九日は必要だが、牛馬にはこうやって食べてもらって思い出してやれ、そうすればベコも極楽往生できようぞ」

「はい、ありがとうございますだ」

「では、儂はいく。宴を楽しんだらさっさと別れるが流儀でな」

 そう言うとサムライはすたすたと歩き始めた。

「お侍様、どうかお名前を」

 村長が呼び止めるが、浪人は振り向きもせず、

「姓は渡辺、名は亮太郎」

 そして悠然と素浪人は去って行く。

 あの米の飯がどこから出てきたのか、あの場にいた全員に行き渡った焼肉のたれをその身体の何処に隠していたのかは判らない。

 ただ、村人達はそれ以後、年に一回このこの日を「牛食いの日」として祝い、牛を潰して食べるのを習わしとした。

 数年後、この土地の代官が苛烈な年貢米を命じて百姓一揆が起こったときも、彼らは村中の牛を潰して食料とし、幕府軍を大いに悩ませ、ついには一揆を成功させて代官の首をすげ替えた上、生き残った者に一揆を起こした場合の大原則である追加の犠牲(首謀者の処刑)を出させないという奇跡を越すことになる。

 その頃には浪人の名前を知るものもいなかったが、今もこの土地は「ワタナベさま」という牛料理の神様を奉っている。

「ワタナベ様」の名で呼ばれる地方の「神様」はこのほかに数百体に及ぶが、全て料理由来であるという。


さて、素浪人の行方は、誰も知らない。

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[一言] 優しく心地良い時代劇でした。
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