第33章 夢のその先
私は、オレリアではない。
固く拳を握り締め、初めて立ち上がった幼子のように、足を踏ん張って地面を押し返す。目は足元の一点を睨みつけ、身体をこわばらせたまま私は声を絞り出す。
「私は、私を生きている。私はあなたじゃない。あなたに私をあげられない。あなたが望むものは私ではないはず」
沈黙の中で荒い息遣いだけが耳に届く。
やがて、静かな声が問いかけてきた。
「オレリアは、なにを望んでいたのですか」
オレリアは……
「オレリアは、あなたに……ローデリクに幸せでいてほしかった。笑っていてほしかった。悲しませたくなかっただけなの」
俯いたままの私に、悲しげな声が告げる。
「ローデリクは、知りたかったはずです。彼は愛する人の苦しみに気がつけなかったことを後悔していた。大切な人がそんな大きな荷物をひとりで抱えていたと知ったなら、それを一緒に背負わせてほしかったと思ったでしょう」
ぶわりと吹き出した熱い涙が、ぼたぼたと地面に落ちていく。お互いに、相手の幸せを望んでいただけなのに。
「……王女様は、自分を蔑ろにしすぎたんだわ」
「しかしそれはローデリクの献身が過ぎたからでもあります。余命のことを知ったなら、全てを投げ打って王女に尽くすことは目に見えていた。事実、彼女に見合う立場になるため騎士団長にまでなったのですから。王女は責任感の強い方ですから、それをさせることはできなかったでしょう」
気がつけば身体からは力が抜け、興奮は静まっていた。私は彼と並んでベンチに座る。
ベルナールさんの目元には、憂いを帯びた笑みが浮かんでいた。
「あのふたりは確かに愛し合っていたようです。けれど、もっと自分の心を曝け出すべきだった。お互いが相手を強く想うあまり、相手を見ていなかった」
オレリアはローデリクを大切にしすぎて、守ったつもりで、突き放していた。彼女は気が付いていなかった。彼を失うのは耐えられないというその気持ちは、そのまま自分にも向けられているのだということに。
苦み走ったお兄様の表情を思い出し、きっと彼もあの時同じことを考えたのだろうと苦笑した。
「お兄様のレオンハルトは、余命わずかだったことをローデリクに明かさなかったのですね。知られたくないという妹の願いを守ったのかしら」
「レオンハルトは病弱な妹を殊のほか大切にしていましたから、そうかもしれません。けれど、ローデリクに伝えていれば、彼はここまで思い悩むことはなかったでしょう」
私はため息をついて顎に手をあて、ぼんやりと夢想する。
「王女様は最期まで彼の幸せを祈っていました。私が思うに、ベルナールさんを通じてローデリクの感情を受け取り、彼が苛んでいることに耐えられず、思い余って私に夢を見せたのかも」
「それはつまりローデリクが幸せでいたのなら、オレリアもあなたの夢には出てこなかったかもしれないと?」
「はい。オレリアは真実を伝えなかったことや彼を残して死んでしまったことを後悔はしていましたが、それでも彼が穏やかに笑っていてくれたのなら、それでよかったんじゃないかしら」
本当のところは分かりませんけれど、と私は小さく肩をすくめた。
「……それにしても結局、どうして私たちがこの夢を見るのかは分かりそうにありませんね」
「ええ、これは証明などできやしないでしょう。これらを彷徨う魂だと唱える人もいれば、前世の記憶だという人もいるかもしれませんが……」
彼は言葉を切り、真剣な顔でこちらに向き直った。
「ミレイユさんは、私はオレリアではないと言った。僕もその言葉ではっきりと自覚しました。僕はローデリクという人間ではないと」
彼はひと言ひと言、誰かに言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「あの男の感情は強すぎて随分長いこと悩まされました。けれど僕はどうやったって僕で、決してローデリクにはならない。ここにいる人間は僕自身が生きてきた。そしてそれを手放せるわけがない」
私も、深く頷く。
「私は自分が誰なのか分からなくなった時、引き戻してくれたのは私が大事に想う人でした。あのふたりは確かに愛し合っていたのでしょう。けれど、私にも私の大切な人がいます」
それにこれは勝手な想像ですけれど、と私は言葉を続ける。
「ふたりはお互いを幸せにしたかった。私たちにお互いの気配を感じていたとしたら、私たちがそうなることで、その魂は慰められるのかもしれません」
なるほどな。とベルナールさんは宙を仰ぐ。
「そうして彼らは、ようやく眠れるのでしょうか」
夕暮れの空は春の緩んだ空気をはらんで流れてゆき、沈みきらぬ陽の名残りは、木々の奥を桜色に染めている。
私は何も見えぬその空間に向かって言葉をかける。
「あなた達は確かに愛し合って精一杯生きたんだもの、もう自分を責めないで心を解放してあげてほしいわ」
何も言わぬ風がそよそよと流れていく。
「……私たちはまだ若いから、この先うまくいかないことも多いでしょう。もどかしいときもあるでしょう。それでも、私たちは悩んで苦しんで、最期の瞬間まで後悔しないよう生きていくと約束するわ。もう二度と魂が彷徨わないように」
彼が、私の言葉を引き継ぐ。
「何かの因果で交差した縁だ。同じ過ちを繰り返すなという願いならば受け取ってあげましょう。けれど、できることはそこまでです。あとは我々が自分自身の人生を生きるのですから」
私たちは見つめ合い、微かに口角を上げる。そうして彼はおもむろに立ち上がった。
「もう夢の検証など必要はない。あなたもそうでしょう?」
「ええ。もう夢から目覚めるときです」
私も立ち上がって彼を見上げる。なんとはなしに自然と体が動く。無意識のうちに私の手は彼に向けて差し出していた。それを見た彼は、一呼吸置いて私の手を取り、ふたりはしっかりと握手をする。
お互いの表情をうかがってしばらく沈黙し、やがて私たちの顔にはゆるゆると笑みが浮かぶ。
「さあ、帰りましょうか」
「ええ、そうですね」
互いの手は離れ、彼は軽く手を上げて背を向ける。
彼が進むその先に、リディアさんの姿があった。彼女はいつから居たのだろうか。
私はそれを見送って歩き出す。
今は甘いバターの香りを胸いっぱいに吸い込みたい。私は口元を緩め、赤と白のストライプが目印の店へと駆け出していく。
空には淡い月がひっそりとその姿を現し、湿度を感じる土と緑の香りが鼻腔をくすぐる。
優しく撫でるような春の風は、もう振り返らなくてもよいのだと背中を静かに押してくれたようでもあった。
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