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虚無王ザラビスは退屈している  作者: 釘宮・連
ザラビスの起源に関する注釈
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第23話: 静かな日常と、孤独な選択

路地裏にひっそりと佇む小さな本屋の前、夕暮れ時の空気はどこか暖かく包まれていた。


空は鮮やかな青から、柔らかなオレンジ色へとゆっくりと姿を変えていく。そよ風が頬をなで、本の紙の匂いと、これから降りそうな雨の気配が運ばれてくる。


ミジャルンは入り口近くの長いベンチに、もうすっかり腰を落ち着けていた。手には分厚い恋愛小説が広げられ、まるで宝物を見つけた子供のように、瞳がきらきらと輝いている。


その隣には、澪が少し緊張した様子で座っていた。恐る恐るといった感じで最初のページを覗き込み、まるで間違って別の世界に踏み込んでしまわないように、細心の注意を払っているかのようだ。


「これ…ロマンスファンタジー、ですよね?」澪が小さな声で問いかける。


ミジャルンはぱっと顔を上げ、満面の笑みを浮かべる。


「そうなの~! これ私の大大大好きな本なの! お話はね、魔女と騎士がいつもケンカしてるふりしてるんだけど、本当はお互いのことが大好きなの」


澪は数回瞬きをする。

「…なんだか、難しい関係ですね」


「そこがいいところなの!」ミジャルンは少し身を乗り出す。「でも、お兄ちゃんには内緒だよ? きっと『女々しい』とか言ってくるから」


澪はくすりと笑いを堪える。

「でも…お兄さん、ミジャルンちゃんの前だと一番女々しいように見えますけど」


その言葉が空に消えるか消えないかのうちに――


「……聞いてたぞ」


横からレイジが現れた。手には二つのお菓子の袋を提げ、表情はいつもの無表情だが、視線はすぐに二人の方へと向けられる。


「俺は女々しくない」


ミジャルンはへらっと笑い、全く怯えた様子もない。


「うそだ~! さっきだって澪がちょっと咳き込んだだけで、すごい慌ててたじゃん」


澪は急に照れてしまい、言葉に詰まる。

「そ、それはただの小さな咳で…」


レイジは一瞬動きを止めた。それから、ゆっくりと近くの棚から一冊の本を取り、顔の半分を隠すようにかざす。


「…市民の安全を確認していただけだ」


ミジャルンは思わず頭を抱える。

「どこの世界の市民だよ…」


澪はうつむいていたが、今度は口元が少しだけ上がっていた。どこからともなく、小さな勇気が湧いてくるのを感じる。


「…じゃあ…私、Sランクの市民です」


レイジが本を少しだけ下ろす。

「なぜSランクだ?」


澪は小さく息を吸い込む。そして、まるで囁くように答えた。


「だって…一番、気にかけてもらってる、から」


沈黙。


風が吹き抜ける。


世界が一瞬、時を止めたかのようだった。


ミジャルンがぴょんと飛び上がる。

「ナイスだぞ澪ーー!!」


レイジは動かない。


だが、耳の先がほんのりと赤く染まっているのが見える。


彼は袋からお菓子を取り出し、包装を開ける…その動きが、異常なまでにゆっくりだった。


「…お前たち、うるさい」


彼は黙って食べる。


ゆっくりと、一口ずつ。


まるでそうすることで、自分のプライドを守ろうとしているかのように。


そして不思議なことに――


この瞬間は、とても…暖かかった。




ゆっくり流れる時間


時が経ち、


ミジャルンと澪はすっかり本の世界に入り込んでいた。時折声を立てて笑い、甘い場面になるとお互いをつつき合い、真剣な場面では時間を忘れて読みふける。


「あっ、ここでついに想いを告げるんだ!」ミジャルンが囁く。


澪は慌ててページの半分を手で隠す。

「ネタバレしないでください…」


その様子を少し離れた場所から、


レイジが一人、佇んでいた。


彼らの輪の中に入るほど近くはなく、だけど完全に視界から外れるほど遠くもない。


街灯の柱にもたれ、


空を眺める瞳は虚ろに見える。


だが、その心の中は――




蘇る断片


記憶の欠片が、一つ、また一つと浮かび上がる。


ヴォー王国の、深い紫色の森。

静かで、冷たく、誰も寄せ付けない世界。


次に――


ムシャフ王国。

活気に満ち、声が絶えず、生きていることを実感する街。


そして――


ミジャルンとの長い旅路。

笑い声。

小さな喧嘩。

意味のないようで、だけど確かに心に残った、数々の出来事。


そして最後に――


アーシア。


その姿が、最も鮮明に浮かぶ。


エルフの里。

銀色の葉が光に反射してきらめく様子。

他のどことも違う、穏やかで安らげる空気。


そして、別れの瞬間。


弱っていくアーシアの体。

即断即決。

強制的な転移。


レイジは目を閉じる。


「…無事だ」


たったそれだけの言葉。


だが、彼を黙らせているのは、その事実ではない。


心の奥底にあるのは――


ただ、自分の目で確かめたい、という想い。


任務だからとか、

守るべき存在だからとか、

そういう理屈じゃない。


ただ…会いたい。


彼はゆっくりと目を開ける。


「…行かなければ」


だが――


視線は再びミジャルンへと移る。


澪と楽しそうに笑い合っている。


重荷もなく。

危険もなく。

ただ、安全で、平和な時間。


生まれて初めて――


レイジは、決断を躊躇った。




心地よくない自覚


『俺はいつだって、目的のために動いてきた』


心の中で自問する。


破壊するため。

守るため。

制御するため。


いつだって明確な理由があった。


だが今回は?


「…ただ、行きたいんだ」


非効率的な欲求。

必要のない感情。

論理的じゃない。


まるで…人間みたいだ。


彼は静かに息を吐く。


「今回だけは…」


夕暮れの空を仰ぐ。


「…一人で、行く」


ほんの一瞬だけ、口元に笑みが浮かんだ。


すぐに消えてしまうほど、儚い笑み。




音もなく去る


別れの言葉もなく。


理由も告げず。


説明も何もなしに。


レイジはその場から姿を消した。


ミジャルンも澪も、気づかない。


誰も見ていない。


だが不思議と、


その背中は、どこか寂しそうだった。




屋上の上、世界の境界線


細かい雨が降り始めていた。


レイジは古いビルの屋上の淵に立っていた。眼下の街はいつも通りの活気を見せ、街灯が一つ、また一つと灯り始める。


「…名古屋か」


彼はゆっくりと手をかざす。


目の前の空気が震える。


指で空間を摘むような動作。


パリッ


亀裂が走った。


大きくはない。

荒れてもいない。


完璧に制御された、傷跡。


ゆっくりと紫色の光が漏れ出す。まるで、本来あるべきではない何かが、息をしているかのように。


レイジは力の出力を絞り続ける。


道を開くだけで十分。

この世界を傷つけるほどの力は必要ない。


彼は一歩、踏み出す。


そして、完全に消える直前に――


ふと動きを止めた。


「…ミジャルン」


それだけ呟いて、


彼は闇の中へと消えた。


亀裂が閉じ、


世界は元の平穏を取り戻す。


まるで、最初から何もなかったかのように。




多元宇宙の狭間


完全なる静寂。


音もなく。

方向もなく。


ただの虚空…そして、無数のゲート。


何十、何百もの扉が浮かんでおり、ゆっくりと回転している。


それぞれが、異なる世界の断片を映し出している。


レイジはその真ん中に立ち、


探す。


「アエレル・アーシアの世界に戻りたい…」


そして、見つけた。


緑色の光を帯びたゲート。


だが――


それは、消えていた。


作動していない。


「…閉じられている」


感情はない。


ただの事実として受け入れる。


「ふっ。ルートが変わったか」


彼は無理にこじ開けようとはしない。


破壊するのではなく、選ぶ。


彼の視線が、一つのゲートに留まる。


紫色のオーラ。


エネルギーの波が不安定に揺れている。


混沌として、荒れ狂い、騒がしい。


極めて危険な香り。


口元に、再び笑みが浮かぶ。


「…こっちの方が、面白そうだ」


躊躇いもなく、


彼はその中へと踏み込んだ。




コトラットの世界 ~掟なき世界~


空は癒えない傷口のように暗く淀んでいた。


稲妻が規則性もなく大地を裂き、


激しい雨が叩きつける。地面は泥にまみれ、そこには無数の暴力の痕跡が残されていた。


ザラビスが、死の森の真ん中に降り立った。


ゆっくりと息を吸い込み、


顔つきが、わずかに変わる。


「…腐っている」


空気のせいではない。


この世界そのものが、腐っているのだ。


ゆっくりと、


彼は人型の殻を脱ぎ捨てる。


肌は深い紫へと変わり、

その下からは赤い血管のような紋様が浮き上がる。

瞳は縦に細く裂け、

頭から角が生え、

漆黒の翼がゆっくりと広がる。


影の中から、悪魔の杖が現れる。


だが――


その力は、まだ完全には解き放たれていない。


限界まで抑え込まれている。


もしこの力を解放すれば、

この世界は一秒と持たないだろう。


「この世界では…」


彼は一歩、前に踏み出す。


「…俺はレイジではない」


遠くの街並みを睨みつける。


かすかな叫び声が聞こえる。


手の平に、黒い炎が宿る。


「名前は…」


悪魔のような笑みが浮かぶ。


「…アノマリー、と呼べ」




狩りの始まり


体が黒い霧へと変わる。


姿を消し、


音もなく移動する。


影から影へ。


彼は目撃した。


無理やり引きずられる子供。

抵抗する女性。

他人の苦しみの上で笑い狂う人間たち。


ザラビスの動きが止まる。


枯れ木の上に浮かび、


瞳が妖しく輝く。


「…了解した」


迷いはない。


天秤にかける必要もない。


ただの、決断。


「大いなる罪を犯す者共…」


黒い炎が腕を覆い尽くす。


「…全員、ニリオンの地獄へ送り届けてやる」


稲妻が轟き、

空が鳴動する。


そして、久しぶりに――


ザラビスは、退屈を感じていなかった。


彼は、ようやく出会えたのだ。


自分が、為すべきことに。

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