後編
結局、叔父様は王都に帰らずに、そのまま私達と休暇を楽しんだ。
空いた時間には部屋で書類仕事をしている様子だったが、それ以外の時間を全て私達の為に使ってくれた。
忙しい叔父様とこんなにも長く一緒にいられたのは初めてで、私は多分、ずっと浮かれていたと思う。
休暇を満喫した私達は、名残惜しい気持ちを抱きつつも王都のタウンハウスへと戻った。いつものつまらない日常が戻ってくると思いきや。
何故か、兄様の様子がおかしい。
忙しいのは相変わらずのようだが、時間が空くと、私の近くにいるようになってしまった。これは異常事態だ。以前なら空き時間の全てをカトリーヌの為に使っていたのに。
今も、刺繍をする私と同じ部屋で書類を読んでいる。
どちらも喋らないから、室内に響くのは兄様が書類を捲る音だけ。同じ部屋にいる意味は正直言って全くないと思う。
叔父様といる時の沈黙は苦にならず、寧ろ心地いいのに、今はただ息苦しい。
昔は兄様の傍にいる時間が好きだったのに、いつから変わってしまったんだろう。
そう考えた時に過るのは、雨の日の記憶。
黒いドレスと黒いベール。白い百合と、棺桶。世界に独りぼっちになったような心細い気持ちまで蘇ってきて、慌ててそれを振り払った。
「……?」
突然頭を振った私に、様子を窺うような兄様の視線が向く。
それに気付かないふりで、手元の刺繍に視線を落とした。
早鐘を打つ心臓を落ち着かせる為に、ゆっくりと呼吸を繰り返す。血の気が引いて頭がくらくらするけれど、必死に姿勢を保った。
今は絶対に、倒れたくない。
兄様に弱い姿なんて、絶対に見せたくないから。
平静を保とうとしているのに、兄様の視線が私から外れない。早く仕事に集中してと願う私を嘲笑うかのように、ついには書類を伏せてしまった。
椅子から立ち上がろうとする気配を察知して身構えていると、廊下から近付いてくる足音が聞こえた。決して乱暴ではないのに良く響く靴音。次いで鳴ったドアのノック音も、やけに響く。
「イザベル、いるか?」
良く通る声で私を呼んだ人の姿を見て、私は心の底から安堵した。
「叔父様」
「待った、そのまま」
立ち上がろうとした私を、叔父様は手で制す。大股で歩いて距離を詰めると、私の顔を覗き込んだ。
「もしかして具合が悪いんじゃないか。顔色が少し悪いぞ」
私の額に手を当てて心配そうな顔をする叔父様に、なんだか泣きたい気持ちになる。
いつも叔父様だけが、私に気付いてくれる。
あの日も、そう。孤独で死にたくなった日、叔父様が傍にいてくれたから私は、こうして生きていられるの。
「横になった方がいい。運ぶから少し我慢しろ」
そう言って私を抱え上げようと手を伸ばすと、ガタンと大きな音が鳴った。
見ると兄様が椅子から立ち上がり、こちらを睨んでいる。
「叔父上、止めてください。イザベルは私が運びます」
突然、何を言い出すのか。
呆気にとられる私とは違い、叔父様は驚かなかった。呆れと苛立ちが混ざったような顔で、息を吐く。
「誰が運んでも変わらんだろう」
「イザベルは嫁入り前の娘です。身内以外の男に肌を触れさせるべきではない」
叔父様だって身内だろうと、呆れながら思う。
しかし叔父様は、そう反論はしなかった。ふぅん、と意味深な視線を兄様に投げた後、私を見る。
「って事だが。イザベルは、オレとノエルとどっちがいい?」
比べるまでもない。でも、叔父様に迷惑がかかるのは嫌だ。
私のせいで叔父様に不名誉な噂が立つなら、我慢する。
きゅっと唇を噛み締めると、全てを見通したような顔で叔父様は眦を緩める。甘やかすような声で、「イザベル」と呼んでくれた。
「余計な事は考えなくていいから、正直に」
甘やかしてほしい時に、甘やかしてくれる。そんな人が傍にいたら、際限なく駄目になってしまいそうだ。
私は望みのまま、叔父様に向けて両手を伸ばす。
子供が抱っこをねだるようで恥ずかしかったけれど、叔父様は『良く出来ました』と言わんばかりの柔らかな笑顔で私を抱き上げた。
兄様の横を通り過ぎる時に鋭い眼差しを向けられ、逃げるように叔父様の胸に顔を埋める。
私の部屋に着くと、叔父様はそっとベッドに下ろしてくれた。
ベッドの傍らに跪いて、驚くほど丁寧な手つきで靴を一つ一つ脱がせてくれる。流石にそれは恥ずかしくて自分で脱ぐと主張しても、笑顔で黙殺された。
「流石に着替えは手伝えないから、侍女を呼んでくる」
「叔父様」
部屋を出ていこうとする叔父様を呼び止めると、振り返る。「ん?」と言葉を促すように首を傾げる仕草に、胸が高鳴った。
「……帰ってしまうの?」
叔父様は私の言葉を聞いて、きょとんと目を丸くする。そして、息を吐くように笑った。
「お前が眠っている間も傍にいるよ」
戻ってきた叔父様は、私の前髪を掻き上げて額に口付ける。
「王都で人気の菓子屋でケーキを買ってきた。お前が起きたらカトリーヌも呼んで、皆でお茶にしようか」
硬い指先が目の下をそっと辿る感触が気持ちよくて、うっとりと目を細めた。
「おじさま……」
「ん?」
「だいすきよ」
甘える子供みたいな声で告げると、叔父様はもう一度額にキスを落とす。
「オレもだ」
耳元で囁かれた低く甘い声が、脳へと染み渡った。
起きた時にはもう、辺りは暗くなっていた。
どうやら寝過ぎてしまったらしい。
目を擦りながら、ゆっくりと身を起こす。
室内の灯りはついておらず、光源はテーブルの上のランタン一つ。ベッドの傍に椅子が置かれているが、人の姿はなく、読みかけの本が残されているだけ。
起きるまで傍にいてくれるって言ったのに。
我儘な子供じみた恨み言を胸中で呟いた。
「叔父様……」
「叔父上なら緊急の呼び出しを受けて、城へと戻った」
「!?」
独り言のつもりだった声に応えが返る。
驚きと畏れに体が跳ね、私はベッドの上で後退った。
暗さに慣れてきた目で周囲を確認すると、入り口近くの壁に、寄り掛かるようにして誰かが立っている。
ランタンの灯りをうっすらと弾く銀色の髪と、硬い声には覚えがあった。
「……兄様?」
「叔父上でなくて残念だったな」
は、と嘲笑うような声で吐き捨てる。
投げやりな態度を不審に思ったが、深く掘り下げる勇気はない。
兄様が何を考えているのかまるで分からないけれど、とにかく一刻も早く出て行ってほしいと、それだけ願った。
「私になにか御用ですか?」
「用がなければ来ては駄目か」
私の問いが気に食わなかったらしく、鋭い声で疑問が返される。
正直、怖い。でも同時に腹が立ってきた。
今更なんだというんだ。
「用がなければ近寄ってこなかったのは、兄様の方ではありませんか」
「……それは」
痛いところを衝かれたとばかりに、兄様は言葉に詰まる。
「今更、気に掛けたりしないでください。今まで通り、私の事はいないものと思っていただいて結構です」
「イザベル」
「ずっと無関心で過ごしてきたじゃないですか。急に距離を詰められても困ります」
「イザベル!」
「良心の呵責だか何だか知りませんが、愛する振りなんてされたくないわ。迷惑、」
目を瞑って、感情のままに吐き出していた言葉が途切れる。
強い力で腕を掴まれたかと思うと、そのまま後ろへと体を倒された。どさりと寝台に体が沈み込んで、枕に詰めてあった羽毛がひらりと一枚、空を舞った。
「に……」
理解が追い付かない。
至近距離にあるのは、兄様の端整な顔。ただし、普段の冷静沈着な様子とは違い、目はギラギラと野生の獣のように輝いている。激情を押し殺しているかのような表情に、ひゅっと喉が渇いた音を立てた。
あまりの恐ろしさに、体が震えだす。
兄様はベッドに片膝を乗り上げるようにして、私の顔の横に手を突いた。
「愛する振り? 振りと言ったか」
呟く声は酷く掠れ、まるで獣の唸り声のよう。
「お前を思うこの気持ちが紛い物だと、お前はそう言うのか」
私を思う気持ち?
兄様はいったい、何を言っているんだろう。
「お前は私の妹だ。……血の繋がりがなくても、それは変わらない。だからずっと押し殺してきた。コレは駄目なのだと、いらないものだと、目を逸らしてきた」
私の手首を掴む指に力が込められ、痛みに眉を顰めた。
「だが、お前にとって必要ないものであっても、これは偽物なんかじゃない。お前にだって否定はさせない」
ぐっと顔が寄せられる。
焦点が合わない程近づいた顔を、私は睨み付けた。
「先に否定したのは兄様でしょう……!」
叫ぶのと同時に、兄様は目を見開く。
淀み、濁っていた目に僅かな光が戻った。
「私を遠ざけたのは兄様なのに、今更なんなの!?」
「だから、それは……」
何かを言おうとする兄様の言葉を、頭を振って否定する。なにも聞きたくない。もう遅い。今更、本当に今更だ。
「私が一番傍にいてほしい時、いてくれなかったじゃない!」
「!」
ぐっと、兄様は言葉を呑み込む。
たぶん思い当たる事があったんだろう。なかったら、それこそ許せないけれど。
「父様と母様の葬儀の日、兄様は私の傍にいなかった」
事故で両親が亡くなり、残されたのは私達三人だけ。
小雨が降りしきる中で執り行われた葬儀には沢山の親戚が参列してくれたけれど、皆、私の事なんて気にしてくれなかった。
オードラン伯爵家にとって、私は何の繋がりもない子供。
血縁でもないくせに、家に居座る厄介者として見られていたのかもしれない。兄様とカトリーヌには優しい言葉をかけるのに、私に向けられるのは冷たい眼差しだけ。
ご親切にも『貴方はお母様の連れ子なんだから、身の程を弁えなさい』なんて忠告までされた。
足元が崩れ落ちるような絶望を感じながらも、すとんと納得した部分もあった。
ああ、だからか。だから兄様は、カトリーヌだけ可愛がって、私を突き放すのかと。
それでも、一人で耐えられるほど私は強くなくて、必死になって兄様に縋り付こうとした。
今だけでいいから、傍にいてほしい。私はいらない子ではないと、嘘でもいいから言ってほしい。
そんな願いを込めて兄様を見つめたけれど、視線はさっと逸らされる。
泣きじゃくるカトリーヌの肩を抱いて、兄様は私に背を向けた。
私の弱った心を砕くのに、それは十分過ぎた。
「私が、ずっと兄様を好きなままだと思った? どうせ追いかけてくるんだから、何をしても許されると思ってた?」
「違う! イザベル、違うんだ……!」
「何も違わない」
必死に言い訳をしようとする兄様に、私は静かに首を横に振る。
「愛情って、無限に湧くものじゃないわ。花に水と光が必要なように、愛情を返してもらえなければ枯れるの」
兄様が好きだった。
小さな頃は、お嫁さんになりたいと本気で思っていた。
でもその無知で可哀想な子供は、二年前の葬儀で両親と共に朽ち果てた。
「もう、遅い。遅かったのよ、兄様……」
掴まれていた手を、そっと外す。呆然自失となった兄様は、私が身を起こしても止めようとはしなかった。
「ベル」
ベッドから下りようとすると、声がかかる。
見ると扉が開いており、大柄な人影が立っていた。慈しむような声が紡いだ愛称は、今のところ一人しか心当たりがない。
よろよろと不安定な足取りで駆け寄り、広い胸にぽすんと飛び込む。
抱き着いてから、肺いっぱいに吸い込んだ香りに、ようやく肩の力が抜けた気がした。
「叔父様」
両親の葬儀の日も、遅れて駆けつけた叔父様だけが、私を気にかけてくれた。びしょ濡れの姿のままで叔父様は屋敷中を探し、両親の寝室の隅ですすり泣く私を抱き締めて、傍にいてくれた。
それからはずっと、この人だけが私の特別。
私をひょいと抱き上げた叔父様は、歩き出す。何処へ向かっているのか分からないけれど、叔父様に任せておけば安心だ。
「ベル」
頬を擦り合わせる。いつの間にか零れ落ちていた涙が、叔父様の頬も濡らしてしまった。
「また、オレの見ていないところで泣かされて」
「見ていたではありませんか」
「屁理屈を言うな」
こつんと額が合わさって、瞳を直接覗き込まれた。
「……もういいか」
長く息を吐き出してから、叔父様は言う。
「え?」
「もう、ここには置いておきたくない。連れて帰る」
「え、それは……大丈夫なんでしょうか?」
「名目はなんとでもなる。……が、お前が良ければ、オレの嫁さんにならないか?」
「…………は」
叔父様の言葉に衝撃を受けて、思考が止まる。ついでに一瞬だけ、心臓も止まった気がした。
「血の繋がりがないとはいえ、叔父と姪だ。お前が考えられないというなら、それでいい。養子なり何なり、別の方法をとろう。無理強いは絶対にしないと約束する」
「まって、まってください」
瞬きする間にも話が進んでしまい、必死になって止める。
驚きすぎて言葉が出なかったけど、私は嫌なんて一言も言ってない。
「いやではない、です」
そう、嫌じゃない。寧ろ……。
恐る恐る、叔父様を見上げる。
失くす事ばかりに慣れてしまった私は、今も、手を伸ばす事に畏れがある。
でも、伸ばさなければ届かない。欲しいと言わなくては、一生手に入らないなら、私は。
叔父様だけは、何があっても手放したくない。
「お嫁さんに、してくれるんですか……?」
震える声で問うと、叔父様の目が甘く蕩ける。
良く出来ましたと言いたげな目には、いつもの慈愛と共に、熱の欠片が滲んでいた。
「喜んで」
「……っ」
叔父様の首にしがみ付いて泣きだした私の背を、叔父様は宥めるように擦る。
「おじさま……ううん、テオドールさま、大好き」
「オレも愛しているよ。かわいい、かわいい、オレだけのお姫様」
ちゅっとコメカミに口付けられる。くすぐったさに笑いながら目を閉じた。
ここは世界で一番、安全な場所。何も怖いものはないし、誰も私を傷付けない。
他にはなにもいらない。叔父様以外、なにも。