ヴェツレの長老
「降りますよ」
デュラが言うが早いか高度が下がる。
あたりは広大な森らしい。月もなく真っ黒で何も見えない。
「立てますか?」
葉の生い茂る樹を上手く避けて地面に降り立つと、壊れ物を扱うようにそうっと降ろしてくれる。
「ありがとう。空の上でも全然怖くなかった。飛び方が上手いって本当だね」
「…ホタルのお喋りもたまには役立つようで」
「なにそれ、誉めてるつもり?それとも照れ隠し?」
少し歩いて、立ち止まった先でホタルが何か呟く。
「どうぞ」
「―――― !」
促されて一歩踏み出すと、篝火が現れる。
さっきまでなかったはずの村の降り口らしきものが出現した。
しかし問題はそこではなかった。目の前で見上げるような巨体の男が仁王立ちしていたからだ。
「…はじめまして、サクラといいます」
ぺこりとお辞儀をすると、彼は盛大に溜息をついた。
「マグヴェスだ。ついてこい」
まるで地響きのような太い声。
ぱちくりして固まってしまっていると、慌てたホタルたちがサクラの背を押して後に続かせる。
目の前でふさふさの、薄い灰色の斑点の入った白い尻尾が揺れている。近いと良く見えないのだが、頭の上には耳があったはずだ。
(……触ってみたい)
「ここだ」
彼の後について入ると、明かりを極力落とした部屋の奥でベッドに横たわっている老人の姿が見えた。
「長老、例の歌姫です」
「…そうか、すまないが起こしてくれるかの」
「あまりご無理なさらぬよう」
言いながらマグヴェスは老人の上半身をゆっくりと起こしてやる。その背にクッションを山ほど押し込んで姿勢を落ち着かせると、彼は下がって部屋を出て行ってしまった。
ちょっと困って首を傾げているサクラを見て、長老はその深いシワの間に笑顔を見せた。
「よいのだよ、はじめからそなたと二人きりで話をしたいと伝えてあったのでな」
「はじめまして、サクラといいます」
「ホマスじゃ。急に呼びつけて悪かったのう」
「いえ…私にお話があるとか」
「ワシの耳は年のわりによく音が届いてな。そなたの歌はいつも聞こえていたよ」
ビックリしてサクラが目を見開くと、手招きしているのが見えた。
そろそろと近づいて、低いベッドの脇に膝をつくと老人と目線が同じくらいの高さになる。
サクラの視界の中で、クリーム色の長い頭髪から垂れる長い兎耳が揺れている。
「いい目の色じゃ。生きた森の色…よく輝いておる。最近聞こえるそなたの声も同じじゃな」
ふぅ、と溜息のように息をついてホマスはまた話し始めた。
「我らの一族の話は知っているかね?」
「少しだけ、ここに来るまでの間に聞きました」
「この村は長だけに口伝される呪いで人の目から姿をくらましておる」
「まじない……まったく分かりませんでした。明かりも見えなかったし」
「呪いには隠すものと開くものの二つがある。今は毛皮無き者と隔たりがあるゆえ隠しているが、いつかはそれを解く日が来るかもしれん。そのためには開く呪いが必要なのだが…」
少しだけ首を振って、長老はまた溜息をついた。
「マグヴェスにそれを覚える気がなくてのう」
たとえ人と交わる日が来ようとも村の所在を明らかにする必要はない、というのが言い分らしい。
「何度となく伝え聞かせたが、隠すほうはすぐ身に入ったのに開くほうは気配がない」
「気配がない?」
「それが使えるようになっていない、ということじゃ」
そこでな、とホマスが身を乗り出す。
「わたしの声が尽きる前に、お前さんに教えておこうと思いついてな」
「………ええ!?」
(いま長だけに口伝されるって言ったばっかりなのに!?)
「クウォンジの神を宿し、産み落としたそなたになら預けられる。どうかな、この話受けてくれんかの」
「……彼を説得するというのは」
「そんな必要はない!!」
地鳴りのような声と同時に、大きな音を立てて扉が乱暴に開かれた。
憤りを隠せない足取りで入ってきたのはマグヴェスだ。
「その話は終わったはずだ!こんな小娘に大事な呪いを教えてやる必要などない!!」
「お前さんが開きの呪いを真剣に覚える気があるなら話は別だ」
「人にこの村を開放する必要はない。無益な諍いを生むだけだ。人と交わるなら村を出ればいい」
「長たるお前が人を隔てているのに?」
マグヴェスの血色の瞳が燃えるように輝く。
「……好きにすれば良い。どうせ人などに、ましてこんな小娘に我らの呪いを使えるわけがないのだからな!」
言い放って彼は足音を立てて出て行ってしまった。
「盗み聞きだなんて、人が悪い」
(あの言い方も、とてもムカつく。なんなの)
「ほ、ほ、さて、長の許しも出たことだし、早速教えることにしようかの」
長老はどこ吹く風だ。
サクラは姿勢を正す。
喧嘩は売らないタチだが、売られてこのまま黙っているのはどうにも癪に障ったのだ。
「いいですよ。絶対あの人より完璧に覚えてみせます」
「頼もしいのう」




