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第36話 クロの痛み

二人は地下から出て、旅館の玄関に戻った。日が落ち、周囲は暗くなり始めていた。星々が顔を出し始め、朽ちた建物を幻想的な光で照らしている。


「今日はここで野営するか?」


「ええ。明日、月影遊園地に向かいましょう」


ルカは玄関の片隅に荷物を置いた。胸ポケットには声の欠片が収まっている。その重みが、失った記憶の代償のようだった。もう思い出せない両親の最後の言葉。しかし、それと引き換えに得たチヨの声。


「ルカ…」クロが呼んだ。「その欠片…使いこなせるか?」


「まだわからない。でも…」ルカは欠片に手を当てた。「姉の声が聞こえた。それだけで…価値がある」


クロの紋様が静かに光った。面の下の表情は見えないが、その佇まいには何か深い感情が表れていた。彼の過去にも、同じような選択があったのだろうか。失うことで得たもの、そして二度と取り戻せないもの。


「チヨとの約束…?」


ルカは柔らかく問いかけた。クロの狐面が傾き、その下から覗いた素顔の一片は、哀しみに引き裂かれたような表情だった。右目の紋様が、痛々しいほどに脈打っている。まるで流れる涙のように、青い光が頬を伝った。


「わからない。それが…代償だ」


彼の声には、ルカが今まで聞いたことのない痛みが混じっていた。そして一瞬、声の調子が変わり、女性の声の残響が混ざったように聞こえた。「忘れてしまった...彼女との約束を」


ルカは驚いてクロを見つめた。その一瞬の声の変化が、彼の正体についての新たな疑問を投げかけていた。


朽ちた温泉旅館。かつて多くの人々が訪れ、約束を交わした場所。その中で果たされなかった約束と、これから果たそうとする約束。声の欠片がポケットで微かに脈打ち、時折チヨの囁きが聞こえる気がした。


ルカは窓の外を見ながら、心の中で誓った。「チヨ、私は約束を守る。あなたの記憶を、すべて取り戻すわ」


そう思った瞬間、懐中時計が、ほんの少しだけ動いたような気がした。七時四十二分から、一秒だけ針が進んだように見えた。それは幻だったかもしれないが、ルカの心には確かな希望の光として映った。


手の中の懐中時計が再び震えた。七時四十二分——止まったままの針が、霧の中で小さく鳴る。「……約束、守るよ。今度こそ、ちゃんと写すから」

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