表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
35/119

第35話 失われた最後の会話

結晶を手に取った瞬間、ルカの頭に激しい痛みが走った。記憶が流れ去っていく感覚。何かが失われる。頭の中でイメージが次々と消えていく。


父の笑顔。母の手。「行ってきます」という父の声。「気をつけてね」という母の優しさ。事故の前日、最後に交わした会話が、水に流れる砂のように消えていく。両親との会話がチヨの記憶と繋がる最後の絆だった。


「何が…消えていくの?」


クロの声が遠くから聞こえた。


「大切な人との最後の会話…」


ルカの意識が遠のいていく。最後に、幻想的な青い光の中で、チヨの声が聞こえた。


「ルカ、わたしのこと、覚えていてくれた?」


その声が彼女の心を揺さぶり、何かが解放されたように感じた。そして暗闇が訪れた。


目を覚ますと、ルカは大浴場の床に横たわっていた。頭に鈍い痛みを感じる。手には青い結晶—声の欠片があった。


「気がついたか」


クロが彼女の横に座っていた。右目の紋様は静かに脈打ち、彼の表情からは安堵の色が見えた。


「どれくらい…気を失ってた?」


「数分だ」


彼は懐中電灯で彼女の顔を照らした。その光の中に、珍しく心配の色が垣間見えた。


ルカは欠片を見つめた。かつての光はなく、普通の青い石のように見える。だが、その内側に何かがあるのを感じた。欠片のあった場所を見ると、湯船の底に何かが書かれていた。「約束」という一文字。欠片が湯船に残した痕跡か、それとも元からそこにあった文字か。


「これで…チヨの声が聞こえるの?」


「試してみるがいい」


ルカは欠片を胸に当てた。目を閉じ、集中する。最初は何も起こらなかったが、やがて遠くから、微かに声が聞こえ始めた。


「ルカ…わたしの役目を…引き継いで…」


かすかだが、確かにチヨの声だった。温かく、優しく、時に厳しい声。ルカが忘れていた音色。心の奥に眠っていた感情が、その声に呼応して湧き上がる。


ルカは目を開けた。頬を伝う涙に気づき、慌てて拭った。もっと感じたいという欲求と、それに戸惑う気持ちが混じり合う。長年抑え込んでいた感情が解放され始め、まるで凍った湖の氷が春の訪れとともに少しずつ溶けていくような感覚がした。


「聞こえた…でも、何かが欠けている気がする」


「代償だ。何を失ったかわかるか?」


ルカは考えた。何か大切な記憶が抜け落ちている。「大切な人との最後の会話」…それは…


「父と母…の最後の言葉が思い出せない」


両親との最後の会話。それが消えていた。事故で亡くなる前の、最後の別れの言葉。最後に見た笑顔、別れの言葉、全てが霧に包まれている。


「そういう仕組みなのね」ルカは静かに言った。「一つの記憶を取り戻すために、別の記憶を失う」


記憶の穴に、彼女は手を当てた。胸の内側が空洞のように感じられる。しかし同時に、新たな希望も宿していた。チヨの声を聞けたこと。それは失った記憶に値する宝物だったのかもしれない。


「全ての欠片が同じだ」クロが立ち上がった。「さあ、次の廃墟へ向かおう」


「まだ…時間はあるでしょ?」


ルカは立ち上がり、カメラを手に取った。彼女の表情には、悲しみと決意が混じっていた。


「霧島さんが言っていた…地下室。彼のノートの断片が残っているって」


「それを探すのか?」


「ええ、彼の写祓は成功したけど…それが本当なら、証拠として残しておきたいの」


それは写し世への約束でもあった。記憶を留める—それが夢写師の役目だと彼女は感じていた。


クロは少し考え、頷いた。


「旅館の裏手に階段がある。だが、危険だ。床が腐っている場所もある」


クロが言った通り、彼は迷わずルカを案内することができた。二人は大浴場を出て、裏手に回った。苔むした石段が地下に続いていた。懐中電灯を取り出し、ルカは慎重に降りていく。


「なぜここのことをそんなに詳しく知ってるの?」


「写し世の記憶を通じて、多くの情報を集めてきた。霧島のノートの存在も、その中の一つだ」


クロの静かな答えに、ルカは眉をひそめたが、それ以上は追求しなかった。地下は湿気が強く、カビの匂いがした。狭い通路を進むと、いくつかの扉が並んでいる。


「どれ?」


「右から三つ目だ。霧島の研究室」


クロは迷いなく言った。ルカはその確信に驚いたが、問わずに指示に従った。


扉を開けると、中は小さな研究室だった。壁一面に計器や図表が並び、中央には大きな作業台がある。すべてが火災の痕跡を残していたが、完全には燃えていない。漂う湿気が、火災から救った皮肉な恩恵だった。


「ここか…」


ルカは懐中電灯で部屋を照らした。光線が埃の中を通り抜け、妖しい光の筋を作る。作業台の上に、焦げた紙が数枚残っていた。


「これかも」


近づいて見ると、それは実験ノートの一部だった。かろうじて文字が読める。


「温泉水の成分分析…特定の細胞への影響…時間と温度の相関関係…」


科学的な記述だが、その一部に読める言葉があった。


「希望を持って…この研究が…人々を救う…」


ルカはページをめくると、さらに興味深い記述を見つけた。「影向稲荷の水を加えたところ、反応が安定。何か特別な成分が含まれているかもしれない。」その一文に、ルカは思わず目を凝らした。チヨが現像液に使っていた水と同じだ。


「彼はこの研究にすべてを捧げていたのね」


「ああ。だが、時間が足りなかった」


クロの声には珍しく感情が混じっていた。紋様が青く瞬き、彼の内面の動揺を示していた。彼の言葉に込められた共感が、どこか個人的な経験に基づいているような気がした。


「あなたも同じ…?」ルカは静かに尋ねた。「時間が足りなかった…」


クロは黙り込んだ。その沈黙自体が答えだった。


「あなたは彼のことを知っていたの?」


「詳しくはない。だが、彼の気持ちは…わかる気がする」クロは窓から外を見つめた。「何かを守るために、全てを捧げる気持ち。それでも足りなかった後悔…」


ルカはノートを慎重に鞄に入れた。その仕草に、彼女自身も気づかない敬意が表れていた。


「持ち帰って、どこかの研究機関に送るわ。彼の研究が無駄じゃなかったことを示すために」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ