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第103話 霧に閉ざされた白黒の世界

「ここが…記憶をすべて失った村」


ルカが霧の中に足を踏み入れると、風景が一変した。荒れ地だったはずの場所に、古い家々が立ち並んでいる。道路、井戸、広場、そして放棄された神社や崩落した広場も見える。すべてが存在していた—しかし、色彩が完全に失われ、白黒の世界になっていた。父のモノクロ写真の世界に迷い込んだような感覚だった。匂いも音も薄れ、ただ遠くからかすかな風鈴の音だけが、時折耳に届いた。


「見えます…村が」


蓮も同じものを見ているようだった。彼は祖父から受け継いだ特別な感覚で、通常の人間には見えない写し世の一部を感じることができた。目を見開き、周囲を見回す彼の表情には、恐怖よりも好奇心が勝っていた。


「不思議です…村全体が記憶の霧に閉じ込められている」蓮は測定器の数値を確認した。「祖父のノートに『記憶はエネルギー波として存在し、特定の条件下で凝縮する』とありましたが、まさにその状態です。村が記憶の結晶となり、時間の外に存在しているんです」


「でも、人の気配がない」


確かに、村には誰一人として姿が見えなかった。静まり返った通りと建物。まるで時間が止まったかのよう。しかし、耳を澄ますと、かすかに村人たちの声が風に乗って漂ってくる—「帰りたい」「思い出したい」「どこだったか」—記憶を求める声々。中には過去の村人たちの声を囁く家々もあるように感じられた。


「住民たちはどこに…」


ルカの問いに、静江が答えた。彼女の目には母の面影が垣間見え、声には不思議な威厳が混じっていた。


「記憶を失った者たちは、別の場所に移住させられたと聞いている。十年前、狐神の暴走を封じるため、チヨが村の記憶を吸収した。住民は自分たちの名前も歴史も忘れ、政府の隠蔽工作で霧梁県各地に分散移住させられた。当時の行政は写し世の存在を知る一部の者しか関与できなかったという。だが、喪失感だけは消えず、彼らは今も郷愁に苦しんでいる。ここにあるのは、彼らの記憶と共に置き去りにされた村の亡骸だ」


一行は村の中心部に向かって歩いた。歩けば歩くほど、写し世の影響が強まっていく。風の音が消え、足音が反響し、時折、人の声のような音が遠くから聞こえる。村の井戸端で女性たちが笑い合う声、畑で働く男たちの掛け声、子どもたちの追いかけっこの音。蓮の測定器が振り切れ、ノートには「記録不能」と走り書きされた。


中心部には小さな広場があり、その真ん中に古い井戸が残されていた。井戸を取り囲むように、八本の石柱が立っている。それぞれの柱には、不思議な紋様が刻まれていた。母が好きだった古い絵巻に描かれていた模様に似ていた。


「この井戸…祖父のノートに詳しく描かれていました」蓮はノートを開き、スケッチと図を指さした。「祖父は科学的な見地から、この井戸を『記憶の波動結集点』と呼んでいました。物理学でいう『量子もつれ』のように、村全体の記憶がこの井戸を中心に絡み合っているんです」


「蓮のおじいさまは、この村で何を見つけたの?」ルカはノートを覗き込んだ。


蓮は眼鏡を直した。「最後の記録によれば、井戸の底で『真の記憶』を発見したとあります。その後の記録はなく…祖父は帰ってきませんでした。僕はずっと、祖父が『記憶の海』に沈んでしまったのだと思っていました」


ルカは井戸の縁に近づき、覗き込んだ。クロミカゲが彼女の隣に立ち、静かに言った。


「井戸の底は時の狭間の中心。写し世の記憶が時間を超えて交差する場所だ。チヨの意識が強くなっている…ここには何かがある」


「水は…まだあるわ」


不思議なことに、井戸の水面には村の全景が映っていた。しかしそれは現在の姿ではなく、かつての活気に満ちた姿。色彩があり、人々が行き交う様子が映っている。収穫祭の準備をする村人たち、笑顔で会話する子どもたち、年配者が集まる井戸端会議。父が写真で捉えたような、生き生きとした瞬間の連続。井戸の底に映る鏡が村人たちの感情の色彩を放っていた。


「これが…失われた記憶」


ルカは懐中時計を取り出した。針は七時四十四分から、さらに一分進んでいた。七時四十五分。記憶の回復が進んでいる証だ。


「どうすれば、彼らの記憶を取り戻せるの?」


「まず、記憶の中心を見つけなければならない」


クロミカゲの声が応えた。今や彼らは蓮にも静江にも見える姿で現れていた。写し世の影響が強い場所では、彼らの存在が実体化するのだ。クロミカゲの声は二重音となり、チヨとクロの声が重なり合っている。


「記憶の中心…ここじゃないの?」


「いや、もっと深いところだ」


クロミカゲは井戸を指さした。彼の右目の紋様が青く輝いている。その姿が壁に映ると、九つの尾を持つ狐の影が現れた。


「おそらく、井戸の底に」


ルカは井戸を見つめた。その深さは測りがたく、底は闇に沈んでいる。そこに記憶の中心があるというのだろうか。井戸からは時間の軋む音が強く響き、記憶の波紋が水面を揺らしていた。


クロミカゲが低い声で言った。


「村の記憶はルカの巫女の力でしか呼び戻せない。チヨの記憶が私を導いている…ルカ、もしお前が村を救えば、わたしも完全になれるかもしれない」


「姉さんの意志なの?」


「ああ…そして」彼は視線を逸らし、「お前の未来を…守りたい」


その言葉に、ルカの胸が温かくなった。父の「大切な人を守るためなら、どんな犠牲も惜しまない」という言葉が蘇る。


「降りなければ」


彼女は決意を固めた。蓮が心配そうに言った。


「危険かもしれません。僕が先に…」


同時に、彼は測定器を操作して霧の密度を測定していた。彼の目には真摯な心配の色が浮かび、母のような優しさが宿っていた。


「いいえ、これは私の役目」


ルカは微笑んだ。彼女の瞳が強く輝いている。


「『影写りの巫女』として、私が記憶を取り戻す手助けをするの」


「僕の祖父は、霧の密度が記憶の振動と関係していると記録していました」蓮は真剣な表情で言った。「気をつけて。密度が高まれば、記憶の流れが揺らぐ可能性があります」


「あなたは写し世と科学をつなぐ人ね。蓮さん」ルカは彼の手を握った。「あなたの記録が、私を支えるわ」


ルカの言葉に、蓮は頬を赤らめながら頷いた。


準備を整え、ルカは井戸に降りる縄を固定した。チクワは不安げに鳴いたが、静江が抱き上げて落ち着かせた。猫の金色の瞳が輝き、何かを伝えようとするようにカシャリと低い音を立てた。


ルカはポケットから小さな袋を取り出し、手に握りしめた。影写りの粉だ。その青い光が微かに手の間から漏れ出ている。「この粉は写し世の光を結晶化し、記憶を現世に結びつける鍵になる」と彼女は静かに呟いた。


「行ってくるわ」


ルカは縄を伝って、ゆっくりと井戸の中へと降りていった。最初は水面が近づいてくるように見えたが、不思議なことに、水に触れる瞬間、それは霧のように消えた。そこには水ではなく、別の空間が広がっていたのだ。冷たい霧が肌にまとわりつく感覚に、彼女は一瞬身震いした。

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