彼の願いは空しくも
掌に収まる程の小さなメモ。
それに記されている内容を一瞥し、フィリオールは大きく息を吐く。
「……間に合う、といいけど」
そう小さく呟き、メモを蝋燭の火にくべた。
完全にその紙が灰に化したのを確認し、軽く吹き散らす。それだけで、その手紙がフィリオールに元に届けられたという証拠はなくなった。そして視線を、机の上に置いている書面へと転じる。
それはシエルへと下された罰則を通知するもの。
期限は一週間。
「……ああ、不安だ」
フィリオールの脳裏に浮かぶのは、顔を隠すようになってしまった1人の少女。
顔を隠すようになってしまった彼女のことを、フィリオールは心からその身を案じている。立場上、そう簡単に会うことは出来ないが、出来うる限りのフォローはしているつもりだ。
だが今回は、その時間がない。彼女にこのことを伝えられるのは、早くて5日。
その日もシエルはギルバと共に懲罰の巡回に出ていた。
「あーうぜー。サボりてー」
「先輩……」
巡回をし始めて早々の愚痴に、ギルバは溜め息をついた。
「……何で先輩ってそんなにやる気がないんですか。いくら給金が貰えて食事も気にしなくていいっていっても、追い出されたら意味がないんですよ」
騎士団に入る人間は基本的に二種類に分かれている。
貴族の子息が箔付け、或いはコネ作りのために入隊する場合。そして平民の子供が食い扶持を稼ぐために入る場合。
騎士団の門戸は誰にでも開かれている。そこに身分は関係ない。実力さえあれば良い。だから、貧しい家庭の子供は騎士団入りを目指すことが多い。ギルバと、シエルもこのパターンだ。
だというのに、シエルはやる気がない。このままではせっかく入隊したのに、成績不振で素行不良だと退団させられてしまう。
「そりゃ、親に言われたから仕方なく。だから、追い出されるなら大歓迎」
「……その場合、親に怒られて勘当とかないんですか?」
「あー……、大丈夫じゃね? 多分婿養子になる。婚約者いたはずだし」
「え゛!?」
爆弾発言投下に、ギルバが硬直した。だが多分、とかはず、とか随分頼りない発言だ。
「ほ、本当なんですか?」
気になってしまうは人情というものだろう。それが色恋沙汰となれば猶更だ。
「ま、親同士が勝手に決めたやつだし。第一俺は、その相手に1度も会ったことないし。姿絵しか知らん」
「……まあ、婚約ってそんなもんでしょうけど……。でも、随分と投げやりというか、無責任じゃないですか?」
ギルバの言葉に、流石にシエルも少々バツの悪そうな顔をした。
「ん、まあ。俺も1度会おうとは思ったんだが……相手が病気とかで会わせてもらえなくてよ。それっきり……。……病気のことは気の毒だとは思うが、親が決めた相手に興味ねーし」
「……そう、なんですか」
予想外に重くなってしまった話題に、慌てたのはシエルの方だ。
「でも近頃は回復に向かってるって聞いてるし……、つか何でそんな顔してんだよ! こんな話、止め止め!」
そしてギルバの背中を思い切り叩いた。
「っ、ちょっ、先輩……!」
後輩が涙目で抗議するが、シエルは無視。
「ほら、さっさと行くぜ」
本当に面倒だが、これでサボって更に罰を受ける方が面倒だ。さっさと終わらせるためシエルは町へ繰り出したのだった。
基本的に、ティアは外出をしようとしない。外に出るときはアルカに頼まれたときくらいだ。
流行りのものないて知らないし興味ない。どこの誰が綺麗だとか、あそこのあの人の歌が素晴らしいとか、そういった噂は食堂でも耳にしているものの、わざわざ行こうとは思わない。
大体、住み込みで働いているティアには休日というものもない。給料だって微々たるものだから贅沢も出来ないし、しようとは思わない。
久しぶりに直射日光を浴びたティアは、日中の人ごみに辟易していた。
最近販売されはじめたという香油の匂いが鼻に着く。
とある花を利用したその香油は、若い女性を中心として現在人気を博しているらしい。しかしティアはそれをつけようとは思わなかった。
飲食店で下手に香りをつけると、匂いがまじって変になる。加えて、その匂いがティアの好みではなかった。
「……変な匂い」
好みではない、というよりも寧ろ生理的嫌悪に近い。どうしてこんなものを付けていられるのか分からない。そしてティアも、どうしてこの匂いを好きになれないのかが分からない。
「え、そうですか?」
しかし、ティアの呟きにエリアが首を傾げた。
「私はこの香り好きですけど……そんなに変かなぁ」
「……結局は好みだからね。私には合わないだけよ」
昔は違った。アルカに助けられる前は人並に……いや、人並み以上に外見には気を使っていた。手入れは欠かさなかったし、香水だって沢山持っていた。
しかし今はどうだ。あの頃とは違い、この手は炊事ですっかりと荒れた。香油だってほとんどつけないし、上質で仕立ての良いドレスだってない。
この変わり様に、ティアは自嘲する。
「まあ、香水のことは置いといて。さっさとお使いを済ませましょう」
「そうですね」
笑顔でエリアは頷いた。
本日のお使いは、そろそろ破損が増え始めた食器の買い替えである。以前から発注していた皿がようやく焼きあがったのだ。
現在、ティアの細腕で抱えている木箱の中には、十数枚の中皿が入っている。当然かなりの重さで、とても女性に頼むものではない。ちなみにエリアが持っている布袋の中にはナイフやフォークなど、安物のフォークやスプーンが入っている。ティアよりも力のなさそうなエリアに、こんな重い物を持たせるわけにはいかなかった。
もし、買ったばかりのお皿を落として割ったりでもしたらどうなるか。想像し、恐怖でティアは青ざめた。木箱を抱え直し、ティアは一刻も早く食堂に戻るために歩くペースを少し早めた。
何故か、落ち着かない。
どこから漂ってくるのかも分からない香油の所為だ。
もうこの辺りにつけている人はいないはずなのに、いつまでも鼻孔の奥に残っている。
「ちょ、ティア。少し早いです」
「ああ、ゴメン」
エリアが遅れていることに気付き、ティアは1度立ち止まった。
「……ああ、でも少し離れて歩こうか。私目立つし」
「えっと……」
ティアの言葉にエリアは何と答えていいのか分からなかった。
確かに、ティアの外見は悪い意味で目立つ。
決して不衛生というわけではないのだが、分厚い眼鏡と顔を隠すヴェールのせいで奇抜な印象を与えてしまうのだ。
「……顔を隠すにしても、もっとやり様があると思うんですけど」
「無理。素顔を晒すのが耐えられない」
そうきっぱりと言い放ち、ティアは再び歩き出し始めた。
「ほら、行くわよ。アルカさんに怒られちゃう」
「……はい」
釈然としないものを感じながらも、エリアはそれに従うしかなかった。小走りでティアの後を追いかける。
それがいけなかったのだろう、前方から歩いてきた人とぶつかってしまった。
「あ、す、すみません」
「ちょっと待った!」
声掛けもなくエリアの横を通り過ぎようとした男へ手を伸ばす。間一髪、腕を掴むことに成功した。
「エリア、財布ちゃんとある?」
「……え?」
ティアに指摘され、ようやくエリアは財布がないことに気付いたらしい。
「と、いうわけでさっさと出しなさい」
いい加減片手で皿を持つのも疲れる。しかし地面に置くのも怖いので、仕方なしにティアは片手で支えるしかない。
「な、何のことだよ」
「今すぐスったものを出せって言ってるのよ」
男はティアの手を振り払おうとする。それを察知し、とっさに向う脛を蹴りつけた。すると男が大袈裟なくらい叫ぶ。
「ってえ!」
暴れられ、思わずティアは手を放してしまった。だが痛みのせいか、男が逃げる様子はない。
「ほら、さっさと出す!」
その間にティアは重い荷物を丁寧に地面に置き、男を恫喝した。