菱屋千里さまの青空
カナは十七のとき、はじめて空という言葉の意味を理解した。
アーカイブ端末で偶然再生した古い映画の冒頭、少女が草原に寝転んで目を閉じ、また開けるあの数秒間だった。画面に色はなかった。カナが生まれるずっと前から、モニタは色を失っていた。母が言うには、子どもの頃はまだ画面に色があったらしい。ある日突然赤が消え、しばらくして緑が消え、最後に青が残って、それもやがて消えた。
端末は、シェルターでほぼ唯一の娯楽であり、教育の道具だった。かつては二台あったらしいが、カナが物心ついた頃には一台が死んでいて、技術班のタムラさんが死んだ方から部品を抜いて残りを延命させていた。いつまで保つかは誰にも分からなかった。数家族、十数人がこの一台を共有している。
色のない画面の中で、あの映画の少女は草原に寝転んで目を開けた。少女の表情が変わった。そこに映っているものが白でも黒でもグレーでもない何かであることは、その表情だけで分かった。
それから、カナは青空について学べるすべてを学んだ。
カナは自分の番が来ると、他の誰も開かないファイルばかり開いた。物理の教科書には、空が青い理由が書かれていた。太陽光が大気に入射すると、窒素や酸素の分子に衝突して散乱する。散乱の強さは波長の4乗に反比例する。短い波長ほど強く散らばる。だから青い。λ^(-4)。きれいな式だと思った。晴れた空。
アーカイブにはもっと多くのものがあった。小説の中で空は別の名前を持っていた。紺碧、蒼穹、天藍。万葉集には「久方の光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ」という歌があった。人々が待ち焦がれていた春という季節。空そのものは詠まれていないのに、空がそこにあった。カナはその歌を何度も声に出して読んだ。光のどけき。のどかな光。その「のどけき」が空の色の名前のようにも思えた。
二十三のとき、大人たちが集まって外部調査の話をした。放射線量の測定値が下がってきている。そろそろ誰かが外を見てくるべきだ。しかし誰が行くのか。線量計の読み方を理解し、土壌サンプルを正しく採取し、防護服の手順を間違えない人間。大人たちは顔を見合わせた。
カナは手を挙げた。
出発の前夜、カナは眠れなかった。アーカイブ端末であの映画をもう一度再生しようとして、やめた。明日、本物を見る。代わりに教科書のファイルを開いた。レイリー散乱。λ^(-4)。カナは端末を閉じて天井を見上げた。シェルターの天井はいつも同じ灰色だった。
***
通路を歩いた。防護服が重い。心拍数が上がっているのが自分で分かった。最後の扉。ハンドルを回す。押す。
光が来た。
カナは目を閉じた。薄暗いシェルターしか知らない目には強すぎた。ゆっくりと、薄目を開ける。
なにもない。壁も、天井も、視界を遮るものがない。足元には地表があった。見渡すかぎり灰色だった。
空を見上げた。
暗い白。重くのっぺりとした灰色の膜が、世界の蓋のように覆いかぶさっている。太陽というものがどこにあるのかは分からない。
――青空がない。
カナは立ち尽くした。大気は、レイリー散乱が起こるほどの空気清浄度に達していない。
もう一度空を見る。どこか一か所でいい、ほんのわずかでも青が滲んでいないかと思った。
――なかった。
見上げた空は灰色だった。シェルターの天井と同じ色だった。
カナはシェルターに戻った。隔壁が閉じていく。その隙間から見える空が細くなる。
――久方の光のどけき春の日に。
(しいな)
(/_;)




