第四章 イヌカイ(二)
先頭を行く熊男・タマルの掲げる松明が石灰岩の洞窟内を照らしていた。
天井からぶら下がるつらら石や、床からむくむくと伸びた石筍には神の力が宿っているようだった。
中には、つらら石と石筍が繋がって柱となったものもある。
イサセリはそれを見て、常世と現世を繋ぐ御柱を思い浮かべた。
そっと手を伸ばすと、タマルの厳しい声が響いた。
「触るな。崩れるぞ」
三十歩ほど進んだところで行き止まりとなり、タマルは左に折れた。
後に続くと、目の前に広大な空間が突如として広がった。
横幅も奥行きも五十歩ほど。
三箇所で火が焚かれ、松明がなくとも奥まで見通せる。
奥の天井は一部崩落し、そこから淡い藤色の空が覗いていた。
洞窟内には十五人ほどがいた。
うち三人は子どもで、先ほどの少年・イルマの姿も見える。
人と同じ数の犬たちがおり、全員の視線を一身に集めたイサセリは唾を飲み込んだ。
タマルは最奥の焚き火までイサセリたちを案内した。
そこには、タマルと同年代の女性、イサセリと同世代の青年、そしてイルマが座っていた。
「妻のタキと息子のタケルだ」
タマルが紹介する。
タキは体格がよく逞しい女性だが、イルマの背を撫でる手には母性的な優しさが光っていた。
顔にはイルマと同じ牙の形の朱が塗られ、動きには狩人特有の静かな気配りが感じられる。
一方のタケルは父親譲りの濃い眉と鋭い目つきが印象的な青年で、顔にはタマルと同じ入れ墨が彫られていたが、若さゆえか表情は柔らかく、好奇心に満ちた目でイサセリたちを観察していた。
彼らの麻の貫頭衣の襟口や裾には、渦巻や波、山々の尾根のような模様が紅糸で描かれていた。
動物の牙の首飾りや耳飾り、骨製の笄、貝殻の腕輪といった多数の装飾品も身につけており、イサセリは海人の文化と似ていると感じた。
イサセリがタマルたちを観察していると、不意に空気が変わった。
それまで静かに寝そべっていた三頭の成犬が、ピクリと耳を動かし、鼻先を震わせる。
イサセリが違和感を覚えた瞬間、成犬たちは一斉に立ち上がり、ウサギを持つウメに飛びかかった。
「わっ! イ、イサセリヒコ様」
ウメはウサギを高く持ち上げ、懸命に奪われまいとした。
だが成犬たちの方が素早い。
黒い毛並みの成犬がウメの肩に前足をかけた。
立ち上がった成犬はウメとほぼ同じ背丈だ。
抵抗むなしく、黒い成犬が一羽にかぶりつく。
もう一羽も土色の成犬に奪われた。
尻餅をついたウメが泣きそうな顔をしていると、タマルの一喝が飛んだ。
「ツォール!」
びくん、と体を震わせた成犬たちは、すぐさま口からウサギを離し、タマルの前に整列した。
「他人の獲物を横取りするとは、情けない」
叱られた成犬たちは尻尾を丸めた。
「ごめんなさいね」
起きあがろうとするウメにタキが手を貸した。
ワカタケはウメに冷ややかな視線を向ける。
「犬からも守れないそいつが悪いのだから、謝る必要はない」
ウメは悔しげに唇を噛みしめたまま、黙り込んだ。
「まあまあ」
イサセリはウサギを拾い上げ、タマルに差し出した。
「少々土がついてしまいましたが、もらってください。泊めていただくお礼です」
「礼を言うのはこちらだ」
「もともと手土産にしようと思っていたものですから」
「そうか。タケル」
ウサギを受け取ったタケルは、小刀を持って洞窟の出口へ向かった。
イサセリたちが蓑笠を脱ぎ、焚き火を囲むように座ると、タキが深々と頭を下げた。
「イルマを助けてくださりありがとうございました」
「ありがとう!」
イルマもそばに伏せる子犬を撫でながら、お礼を言った。
「いえ、私たちはイルマに案内されるまま進んだだけですから」
イサセリはイルマに目配せし、子犬を撫でてもいいか尋ねた。
頷きを得て手を伸ばす。毛並みはふわりと柔らかい。
騒乱に巻き込まれたばかりというのに、子犬は呑気にあくびをしていた。
タキが白湯を勧めてくれた。
イサセリたち三人は竹筒に注がれる湯気立つ液体を受け取る。
イサセリは白湯を口に運びながら、さりげなく周囲を観察した。
タマルたちは友好的な態度を見せているが、まだ完全には警戒心を解けずにいた。
突如、ウメの叫び声が上がった。
イサセリが素早く視線を向けると、ウメは慌てふためきながら舌を煽いでいた。
熱さに驚き手放してしまったらしい竹筒は、ワカタケの手にすっぽりと収まっている。
「熱いに決まってるだろ」
ワカタケの呆れた声にウメは謝りながら竹筒を取り戻した。
あいかわらず気が抜ける人だ。
イサセリが笑みを漏らしていると、タマルがぽつりと重い声で尋ねた。
「……里人に姿を見られたか?」
「笠は被っていましたが、恐らく」
イサセリが答えると、タマルは「すまない」と謝った。
「俺たちの仲間と思われただろう」
タマルの硬い表情に、イサセリは尋ねた。
「里人との間に、何かあったのですか」
「あいつらがツィーをうばったんだ!」
イルマはそばにいた子犬を抱きしめた。
眉尻を下げたタキが黙ってイルマの頭を撫でる。
そんな妻子の姿を見つめながら、タマルはゆっくりと語りはじめた。
「すべては誤解から始まったんだ。俺たちは平地の里人とは異なる暮らしをしてきた。近くにいても互いに不干渉を貫いていた。
だがある時から、里の収穫物が山に住む人間によって盗まれるようになった」
「え?」
「もちろん俺たちじゃない。山賊のしわざだ。奴らのほとんどは、元は平地で暮らしていた人間だ。
先の地震や気候が変わったことで農業を続けられなくなった者が、山に逃げてくるようになった」
イサセリは海人もどきのことを思い出した。
彼の言葉を信じるならば、彼も元は農夫で、洪水により移住を強いられた人間だった。
「山賊たちの過剰な狩りや採集には、俺たちも手を焼いている。奴らは何もわかっていない。狩りすぎれば、来年のめぐみに影響を及ぼすんだ。
だから俺たちは、常に移動している。奴らは一箇所にとどまっていることが多い」
「タマルさんたちにとっても、厄介者ということですね」
「そうだ。だが里人にとっては、山で暮らす俺たちも奴らも、同じように見えるらしい。次第に里人は、俺たちの家族である犬を奪いはじめた」
「そんな!」
イサセリは言葉を失った。
「あなたたちと山賊は違うと説明したのですか」
「しようとしたが、耳を貸さなかった。俺たちはすでに、彼らの敵になってしまっている」
「タマルさんがおっしゃりたいのは、あなたたちを助けた私たちも、里人に敵と見做された可能性が高いということですね」
イサセリはようやく、タマルの謝罪の意味を理解した。
母にしがみ付きながら、イルマが言った。
「お兄ちゃんたちがいなかったら、ツィーは今ごろ食べられていたかもしれない」
「食べる?」
タマルが息子の言葉を補足する。
「平地の里人には、犬を食用とする文化があるんだ。受け入れがたいものだが……俺たちだってウサギやシカ、イノシシやトリを食べる。
もしかしたら、これらの動物を家族と思ったり、神として敬ったりする民族がいるかもしれない。だから、彼らの文化自体は否定しない。
しかし、俺たちの家族に手を出すのは別だ」
タマルの眉間の皺が深くなった。タマルの怒りに同調し、黒い成犬が低く唸る。
イサセリは、昔ネホコから聞いた話を思い出した。
大陸や半島では、犬は一般的な食料だと。
この地域の里人の祖先は、犬食文化を持った大陸や半島の人なのかもしれない。
それまで口を閉ざしていたウメが言った。
「タマルさんたちは、里人による家族への襲撃を止めたい、ということですね?」
タマルが頷いた。
「では、その悩みを解決した暁には、私たちにも手を貸していただけますか」
「ウメ?」
唐突な彼女の提案に、イサセリはきょとんとした。
「イサセリヒコ様。《イヌ》ですよ」
「ああ、犬だが」
そばには、タマルに叱られてふてくされる黒犬や、寝息を立てる子犬がそばにいた。
ウメは強引に話を進めた。
「そうではなく、私は《サル》で、彼らは《イヌ》です!」
「え?」
イサセリは瞬きを繰り返した。そんなことがあるだろうか。
たしかに犬を連れている彼ら以上に《イヌ》に相応しい人がいるとは思えないが、あまりにも都合が良すぎる。
「彼らとは偶然会ったんだ」
「ええ。しかし、導きの神・サルタヒコ大神の巫女である私がついていますから」
ウメは胸を張った。
「話が見えないのだが」
困惑した様子のタマルに、ウメは、イサセリの使命やツル山にやってきた理由を伝えた。
「なるほど。その神の言葉にあった《イヌ》が俺たちだというのだな」
ウメは頷いた。
「あなたがた一族はなんと呼ばれているのですか」
「俺たちが名付けたわけではないが、『イヌカイ族』と呼ばれている」
サルメ族。
イヌカイ族。
一族の名が神託に関連しているのだろうか。
タマルは太い腕を胸の前で組んで唸った。
大きな目でイサセリを見つめてくる。
「……協力するか答える前に、イサセリに一つ聞きたい」
「なんでしょう」
「神託の獣を集め、キビへ向かい、一体何をするつもりなのだ」
「何を……」
考えたことがなかった。
大神からは、三種の獣を集めキビへ行け、としか告げられていない。
もし、このまま三種の獣が集まったとして、私は何をすればいいのだろう。
「さあ、何をするんでしょう」
イサセリの気の抜ける回答に、隣にいたワカタケが呆れたように言った。
「おまえなあ。大王からの命令を忘れてないか? ヤマトがより繁栄するよう、キビを支配下に置くんだろ」
「そうなのか」
タマルの眼光が鋭くなった。
その目に怯えたわけではない。
ただイサセリにとって、ワカタケの言葉はどこか腑に落ちなかった。
「支配下に置く、という表現には違和感があります」
イサセリは慎重に言葉を選びながら続けた。
「確かに、大王の命令は重要です。でも支配っていうと、強者が武力で、って感じがして……。
それなら私みたいな者に神託が下ったりはしないはずです。きっと、もっと別の意味があるんじゃないでしょうか」
イサセリは不機嫌顔のワカタケを視界の端に捉えながらも、自分の考えを言い切った。
「つまり、なんていうのでしょう。必要な時に協力しあう関係といいますか……。
今回みたいにタマルさんが困っていたら私たちが助けて、私たちが困っていたら助けてもらうような協力関係を、キビとも作れたらいいのではないでしょうか」
ワカタケから特大のため息が漏れた。
「何度も言うがな……お前は甘いんだよ。俺の腹に風穴を空けたのが、どこのどいつか知ってるか? キビの兵だよ。
手を取り合って仲良くなんて、できねえ奴らもいるから俺たちみたいな武人がいるんだろ」
イサセリは言葉を失った。
ワカタケの腹の傷を思い出す。
ずっと戦ってきた弟の気持ちを、少しも考えていなかった自分が嫌になった。
「俺も、ワカタケに賛成だな」
タマルが言った。
「イサセリの語る世は理想だが、夢物語すぎる」
反論の余地がなかった。
自分よりも人生経験豊富な二人に反対されたのだ。
あまりにも稚拙で、無謀な考えだったのかもしれない。
恥ずかしさのあまり、イサセリは顔が熱くなるのを感じた。
間違っていたと素直に言おう。イサセリがそう考えた時――
「だが」
――タマルの口が先に開いた。
「もし、俺たちと里人との関係を修復できるなら、俺はお前の語る夢を信じよう」
タマルは髭に覆われた分厚い唇を、横に引いて笑った。
「ちょっと待て」
ワカタケが口を挟んだ。
「俺たちは早くムキに行かなきゃいけないんだ。そんなことをしている時間はない」
「それは無謀だな」
タマルが首を横に振った。
ワカタケの隣にいたウメが尋ねた。
「どういう意味でしょうか」
「おまえたちは南から来たと言ったな。これより北はさらに険しい山が続き、冬になれば雪に閉ざされる地域だ。あとひと月もしない間に雪が降りはじめる。
凍死したくなければ、おとなしくここで冬越しをしたほうがいい」
イサセリとウメは、呆然としてワカタケを見つめた。
ムキで長年暮らしていたワカタケは、冬の山のことを知っていたはずだ。
それなのに、タマルたちと出会う前、一度も旅を中断しようとは言わなかった。
この先に滞在できる里でもあったのだろうか。
しかし、タマルの言い方では……。
ワカタケは、イサセリとウメの視線を無視してタマルに反論した。
「今すぐ出発すれば間に合うはずなんだ。雪が降る前にムキに到着できる」
「予想よりも早く降りはじめたらどうする。怪我や病で足取りが遅くなったら?
そもそもだ。イサセリはあまり体が強くなさそうだな。そんな彼や女性を連れて、今すぐ出たとして、本当に間に合うのか?」
タマルの言葉を聞きながら、ワカタケの表情が徐々に変化していった。
最初は反発を示していたが、次第に怒りが薄れていく。
あぐらの膝の上に置いた拳が小刻みに震えていた。
大王の元へ早く戻りたいという焦りが、ワカタケからにじみ出ていた。
「ワカタケ」
イサセリが名を呼ぶと、彼は勢いよく立ち上がった。
青い顔をしていた。
横に置いていた鉄剣を掴むと、洞窟の出口へ走っていってしまう。
「待て、ワカタケ!」
イサセリは追いかけようとしたがタマルに止められた。
代わりに、指示を受けたタマルの犬がワカタケの後を追った。
夜になりワカタケが洞窟に戻ってきてからも、イサセリは弟にかける言葉を見つけられなかった。




