悪魔が囁く
目の前を通り過ぎて行ったあの人の背中を、ただ呆けたように見つめていた。
心臓が煩くて、顔が熱い。
熱に浮かされているような、そんな気分だった。
『あーあ。レイ様が女の人じゃなかったら、本当に理想ど真ん中だったのに』
『でも不毛な恋に落ちるよりも、いっそ諦めがついていいわよ。私レイ様が男の人だったら、親が決めた婚約者を裏切ってきっとアタックしていたもの』
周りの女生徒の言葉で、王子様の性別が女性であることを知ったけれど、その事実は不思議なくらいに私に衝撃を与えなかった。
絵本の王子様のような、たおやかで繊細な美しさは、男性にはけして出せないことを本能で知っていたからかも知れない。
性別を超越しているからこそ、あの人はなお美しいのだ。
『レイ、様……』
女生徒達が口にしていた名前を、舌の上で転がすように呟くと自然と口元が綻んだ。
レイ様。
レイ様。
レイ様。
――私の、理想の王子様。
近づきたい。
あの人の特別な存在になりたい。
……ああ、でも駄目だ。
私は呪われているもの。
呪われている少女が、自分から王子様に近づいたりしてはいけないもの。
呪いが王子様を汚してしまうかもしれないから。
……だから、レイ様に、気付いて貰わないと。
気付いて。
気付いて。
私はここに、います。
ここで一人で、理不尽な呪いを抱えて苦しんでいます。
気付いて、手を差し伸べて。
呪いを解いて、私を救って下さい。レイ様。
祈るような気持ちで、レイ様の下駄箱に薄紫の手紙を入れた。
中に入れた便箋には何も書くことは出来なかった。……だけど、この封筒を見たら、私の瞳の色と結び付けてくれるかもしれない。
私を見つけ出すきっかけになってくれるかもしれない。
だけどどれほど手紙を出し続けようともレイ様は私の存在に気が付いてくれなかった。
失望は、諦観に変わり、そして私は悟った。
……レイ様は、私だけじゃなくて、みんなの王子様なんだ。
誰に対しても平等でいないといけないから、私だけを特別扱いしてはくれないんだ。
欲しいだなんて、思ってはいけない。
話掛けることも、駄目だ。
そんなこと、とても恐れ多いから。
近づくだけでも、烏滸がましいの。
ただ遠くから見てるだけ、それだけで。
いつだってきらきら輝いているあの人を、ただ見てるだけで私は幸せなんだ。
自分に言い聞かせた言葉は、やがて私の中で真実になり、私はあたかも神を讃えるがごとくレイ様を信望するようになっていった。
見返りを求めない無償の愛こそが、至高だと思わなければ、レイ様との絶望的なまでの距離に押しつぶされそうだったから。
私の頭の中はいつもレイ様のことでいっぱいで、いつの間にか自身の家のことも我が身の不幸のことも考えなくなっていた。
学園に入学してからは、親の言いつけに逆らって、悪魔の声を聞こうと自ら働きかけることはなくなっていた。
私の意志の強さを感じ取ったのか、悪魔も悪魔で向こうから声を掛けて来ることもなかった。
このまま、ゆっくり悪魔との縁を切って、声が聞こえないようになれば、私も普通の女の子になれるかもしれない。
生まれながらにこの身に宿る、紫水晶の呪いから解放されるかもしれない。
叶わない、一方的な思慕だと分かっていたけれど、それでも私はそれなりに満たされていた。
……あの女が現れる、までは。
『レイ様が、特別なご友人を作ったらしいね』
『赤い目と髪を持って生まれたせいで、不幸な境遇にあっていた彼女を、優しいレイ様は放っておけなかったみたいですわ』
『最初は頑なだったマーリーン嬢も、今ではすっかりレイ様に夢中みたいだよ。口ではきついことを言っているけど、それでもいつも目がレイ様を追っているもの。……本当に仲が良い、親友って感じ』
レイ様。みんなの、王子様。
――あなたは、誰も特別扱いしないのでは、なかったのですか?
『……レイ。あんた、こんな所にいたの』
やめて、レイ様に話しかけないで。
あの人は、あんたが話しかけて良いような人じゃない!!
『ごめん。マーリーン。探させちゃった?』
……ああ、どうして。どうして、こんな女にそんな表情を見せるのですか……!?
『別に探してなんかいないわよ。……ただ、うるさいあんたがいないくて、静寂が落ち着かないから教室を出ただけで』
『素直じゃないなあ。マーリーン。私がいなくて淋しいって言ってくれてもいいんだよ?……まあ、そんな所も可愛いけどね』
どうして、そんな風に、この女を特別な存在のように扱うのですか……!?
どうして。
どうして。
どうして。
どうしてレイ様は、その女の不幸には気づいたのに、私の不幸には気づいてくれないのですか……!?
生まれながらに、宿した色の呪い。
どうして、何もしていないその女はレイ様から救いあげて貰って、こんなにレイ様を慕っている私はレイ様に手を差し伸べて貰えないのですか……?
私の方が、不幸なのに。
その女なんかより、ずっとずっと不幸なのにっ!!!!!!
『馬鹿レイ……行くわよ』
……憎い。
憎い憎い憎い憎い
憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎憎い憎い憎い憎い!!!!!!
あの女が、殺してやりたいほど、憎くて仕方ないっ……!!
【――じゃあ、殺せばいいよ】
悪魔が私に、囁いた。




