レイリアの闇
やがて、土が完全にザイードの姿を覆い隠した。
私は、続いて起こるだろうザイードの反撃を備えるべく、剣を構えたが、暫く待ってもザイードは何の動きを見せることなく、観客席のざわめきだけがその場を支配した。
……まさか、ザイードは土の重みに耐えきれずに気絶してしまったのか?
いくら何でも、そんな終わりじゃ拍子抜けだ。だけど、人間の体というのは存外もろいものだ。屈強に鍛え抜かれた兵士ですら、些細なことがきっかけで命を落とすこともある。もし本当に気絶しているならば、一刻も早くザイードを救出する必要がある。
「……ザイード。その、大丈夫かい?」
フェニの背から降りて、土の山に向かって足を踏みだした時だった。
「……っ!!!!」
突然土の山の中から現れた黒い蛇が、真っ直ぐに私の胸元に突き刺さり、体を通り抜けて行った。
しまった……。闇蛇なら、土くらい簡単に通り抜けてしまうことを、忘れてしまっていた。
完全に、油断していた。
ザイードが、こんな簡単にやられないことくらい、少し考えれば分かることだったのに。
急激に目の前が、真っ暗になり、観客席の声が、遠ざかっていく。
土の山の後ろで、赤い目を光らせてこちらを見つめるヘルハウンドの姿があった。
落ちる。
堕ちて行く。
深く深く。
心の、闇の中へ。
――暗い。暗い。
ここは、どこだ。何も、見えない。何も、聞こえない。
暗闇の中に、赤い目だけがぼんやりと浮かび上がる。
あれは、ヘルハウンド? ――いや、違う。
『――偽善者』
脳内に直接響くその声は、今より少し幼いけど、よく知っているもので。
当時は私と同じくらいに……いやそれよりもさらに短く切られていた赤い髪も。
冷ややかで冷たい、赤い瞳も。
私は、良く知っている。
きっと、誰よりも知っている。
『あんたの気持ち悪い自己満足に、私を巻き込まないで。勝手に一人で、王子様ごっこをやって悦に浸っていればいいわ』
今でもよく覚えている。忘れたくても、忘れられない、この言葉を。
人生で二度目の拒絶の言葉は、初めて会った時のアルファンスの言葉と同じくらいに深く私の胸に突き刺さったのだから。
「……マーリーン」
そこにいるのは、十三歳のマーリーンだ。
初めて会った時、マーリーンは私を心の底から嫌っていた。
『俺は貴族のお嬢さんの七面倒臭い、青臭い正義感になんて付き合ってやる義理はないんだ!! さっさと帰れ!!』
続いて聞こえてきた声は、先日のヴィッカ先生の言葉だった。
『おめでとう。レイリア。後一年もすれば、お前も汚い大人の仲間入りだ。――言っておくが、お前が大人として生きることになる貴族社会の大人たちは、俺達よりもずっと汚くて面倒臭いぞ。せいぜいお前が、綺麗なままであろうとして、底に溜まったヘドロで足元を掬われないことを祈ってるぞ』
ヴィッカ先生の言葉は厳しいけれど、きっと正しくて。
正しいからこそ、一層私の胸に深く突き刺さって、抜けない。
『何も出来ないのなら、最初から何もしない方がいい。若いあんたが思っている以上に、『個』が持つ力なんて小さいものさ。誰かを、何かを救うということは、並大抵のことじゃないからね』
これは、アーシュの時にフルーリエ先生に言われた言葉だ。
『全く……お前のことだから碌に反撃もすることなく、口で話せば分かってくれるだろうとか、生温いことを考えていたんだろう。だからお前は駄目なんだ。平和主義の甘ちゃんもいい加減にしておけよ』
これは、ディアンヌに襲われた時、アルファンスに言われた。
多くの人が、理想を追い求める私を、否定する。
そんな物無理だと、愚かな考えだと鼻で笑う。
だけど、私はそれでも、ずっと「せめて学生でいる間だけは」と、自分の意志を貫いてきた。
一人でやる分ならば、誰にも迷惑を掛けないだろうと、そうやって言い訳をしながら。その陰で迷惑を被っている人がいることなんて考えもせずに。
何の為に?
理想の王子様のように、なりたかったから。絵本に出てきた、王子様のように優しくて高潔な人間に憧れたから。
だけど、絵本はあくまでフィクションで。
絵本の世界は、絶対的な悪者と、絶対的な正義な味方がいて、正義の味方はただ絶対的な悪者を打ち倒して、お姫様を救い出せばいいだけで。
そんな世界を生きる王子様になることなんて、善悪が複雑に入り混じった現実の世界では、土台無理な話で。
絶対的な「正しさ」なんてない現実の世界に、絶対的な「正しさ」が悪に打ち勝つ世界の倫理観なんて通用するはずがなくて。
それが分かっているのに、理想を追い続けることをやめない私は、間違っているのだろうか。
あまりにも、愚かなのだろうか。
『――そんなことない。間違っているのは、皆の方よ』
不意にすぐ傍から響いた声に、ぎょっと目を剥いた。
いつの間にか目の前に立っていたのは、絵本の中のお姫様のようにたくさんのフリルがついたドレスを身に纏う、長い金色の巻き髪の女性。
すらりとした背が高い中性的な姿に、少女趣味のようなドレスはあまりにチグハグで、滑稽ですらあった。
『だって、絵本の中の王子様の言葉に間違いなんて、あるわけないでしょう!! 世の中がおかしいだけで、正しいのは私の方だわ!! だって、私は「人の為」に行動しているのだもの!! マーリーンも、ヴィッカ先生も、フルーリエ先生も、アルファンスも、私を否定する人の方こそ、間違っているのよ!!』
そんな身勝手なことを叫ぶ女性が、男装をしていない場合の自分自身だと気が付いた途端、ぞわりと肌が粟立った。
「人の為って……何を言っているんだい? 自分の為だろ? 私はただ自分の自己満足で動いているだけで、人の為に動いてなんかいないだろう?」
『だけど、結果的に人の為になっていることだって、多いじゃない!! 色んな人が私のことを否定するけど、否定されたことより感謝されたことの方が多いわ!! 私がしていることは、ちゃんと誰かの為になっているのよ!! 何もしようとしない人たちに否定される筋合いないわ!!』
「それは結果論、だろう? それに、私が気づいていないだけで、今までだってずっと、裏で誰かに迷惑を掛けてきたのかもしれない……それに、口では感謝の言葉を言っていても、内心は余計なお世話と思っていないとは、限らないし」
『そんなの、言わない方が悪いわ!!』
「私が高位貴族だから、言えないことだってあるだろうし」
『知らないわ。そんなの。何を迷惑に思って、何を感謝するかなんて、人それぞれだわ。いくら考えたって、わかりっこない。なら、私は私の価値観の元に、そうであるべきだと思う理想の姿を追求するだけよ。それ以外、できないもの』
もう一人の私は、青い瞳できっと私を睨み付ける。
『私は、私が正しいと思うことをするだけよ!! 私は、何も間違ってない!!』
「……そもそも自分の「正しさ」に対する定義自体、はっきりしていない癖に?」
『……っそ、それはいいのよ!! とにかくその場その場で、正しいと思ったことをすれば、いいの!!』
……これは、私の心の声なんだろうか。自分自身でも気が付いていない、心の闇の一部なんだろうか。
何というか……こうやって、改めて客観的に見せつけられると、私って身勝手で幼稚で馬鹿なんだってことがよく分かるな。
最初は否定したい感情を叫ぶ自分に悍ましさを感じていた筈だったのに、段々純粋に悲しくなってきたぞ……。というか、その無理があり過ぎる似合わないドレス姿が、まず純粋に悲しい。
私は思わず頭を抱えて、溜息を吐いた。
……知りたくなかったなー。こんな自分。




