溺れ、堕ちる
白蛇は暫し黙ってディアンヌを見つめていたが、やがて溜息を吐くようにシューシューという音を出した。
【……今回だけですよ。ディアンヌ。私が、大精霊様に頼んであげましょう。ただし、悪霊化の兆候があれば、私が責任もって記憶を消去しに参上するという条件付で】
【……あ、ありがとうございます】
【ただの気まぐれです。しかし、まあ……自らを裏切り、命を奪おうとまでした男だというのに……全く、『恋』という感情は、私には理解できません。何故、無意味に苦しみを負おうとするのでしょうか。全てを忘れたうえで、それでもなお望むのならまた、新しい男に恋をすればいいと思うのですがね。そっちの方がよほど建設的です】
【……私はもう、二度と恋なんてしないわ。だからこそ、余計にディックのことを覚えていたいの】
そう言ってディアンヌは流れる涙を、手の甲に拭った。
【もう二度と愛する人の命をこの手で奪うようなことをしたくないもの……私はこれから、ただディックのことだけを想って、一人だけで生きていくわ……それが、ディックを殺した私が出来る唯一のことだもの】
【……それは、随分とまた不毛なことで】
【不毛なんかじゃないわ……私には、何より意味があることだわ……】
再び声を上げて泣きだしたディアンヌに、白蛇はもう一度呆れたようにシューと鳴いて、背を向けた。
【……まあ、貴女が壊れて他の生き物に害を為さない限り、私の口だしできることではないですね。……月日が経つうちに考えが変わらないとも限らないですし】
【……考えなんて、変わる筈ないわ……!!】
【未来は誰にも分かりません。偉大なる大精霊様ですら、分からないのですから。私はただ、可能性を言ったまでです。……それでは私はこの辺りでお暇させて頂きましょう、――ああ、そうそう】
白蛇の刺すような視線が、再び俺の方を向いた。
【そこにいる下位の水精霊達も、いつもの棲家に戻りなさい。騒ぎに釣られてやって来たんでしょうが、今日あったことをくれぐれも人間に話してはいけませんよ? これがきっかけで人間が精霊を敵視しだしたら、ディアンヌのような高位精霊はともかく、貴方達のような下位の精霊なんて、簡単に消されてしまうのですから――例え、貴方達が慕っている『水の愛し子』相手でも、駄目です】
それは、きっと下位の精霊達ではなく、俺に向けて発せられた言葉だった。
今日見たことを、誰にも言うなと。
言えば、水の精霊達が害されることになるからと。
白蛇は俺に向かって釘を刺していたのだ。
俺が黙ったまま首を縦に振ると、白蛇は微笑むように目を細めた。
【……さあ、分かったら気をつけてお帰りなさい。小さい子ら】
【……しろへびさま、みのがしてくれて、よかったね……】
【でぃあんぬも、いとしごのこと、きづいてなくて、よかった……】
【でも、いとしご……これからも、みずうみにちかづいちゃ、だめだよ……】
【……ちかづいたら、こんどこそ、かわりにされるよ……かわりにされて、ころされちゃうよ……】
下位の精霊たちが囁く声を聞きながら、俺は黙って屋敷に戻った。
ベッドに入っても、ディアンヌのことと兄のことが頭から離れなくて、眠れなかった。
翌日は大騒ぎになった。
膝程の浅い川で、溺死した兄の死体が見つかったのだ。
白蛇が何らかの操作をしたのか、それとも見つかった場所がそういう場所なのか、不思議なくらい兄の死を精霊の仕業と疑う大人はいなかった。
代わりに『水の愛し子』である俺が、家を継ぎたいあまりに兄を殺したのではないかと疑われ、ますます本妻さんの当たりがきつくなったけど、その時の俺にとってはそんなことは大したことじゃなかった。
ただ、本妻さんがあまりに俺を嫌うものだから、流石の親父も俺をセドウィグ家に置いていくのは無理だと判断して、かねてから打診があった婿入りの形でのミーアとの婚約を承諾したことだけは困った。
ミーアのことも、ミーアの両親のことも、好きだ。セドウィグ家に入ってから、何度あの優しい人たちの元に戻りたいと思ったか。そんな彼らが、家に居場所がない俺の為に、親父に婚約を打診してくれたことに感謝してもしきれない。
けれども……それでもやっぱり俺は、あの人のことを、忘れられない。
生まれて初めての恋。
ただ、一目見た。それだけなのに。言葉を交わすことさえも、していないのに。
一時の気の迷いだと思うには、あまりにもその激しい感情は俺の体の奥底まで蝕んでいて。
月日が経って風化するどころか、日を追うごとに想いは増々募って、大きくなっていく。
四年の間。
俺は一度もディアンヌが住む湖に足を運ぶこともないまま、ただひたすら考えていた。
ミーアと結婚すれば、俺は優しい人達に囲まれて、きっと幸せになれるだろう。
幸せな、『人間としての』生を、全うできる筈だ。
ディアンヌは、人間じゃない。それどころか、裏切ったからといって兄を殺した、とても恐ろしい存在だ。恐れ、忌避すべきなんだ。
それに、彼女は今でもきっと、兄を愛している。兄だけを愛し続けると、そう言っていた。
そもそも彼女は俺の存在自体、知らないのだ。
不毛だ。あまりにも、不毛過ぎる恋だ。
諦めた方が、いいに決まっている。
だけども、そう思う度、脳裏には何百何千と思い返した、あの日のディアンヌの姿が鮮やかに蘇って来て。
あの時抱いた感情が、鮮やかに胸の中に蘇って来て。
(だめだよ……いとしご……いま、でぃあんぬのそばにいったら『かわり』にされるよ……)
(みずのせいれいは、みな、いとしごがすきだよ……だからきっと、でぃあんぬも、いとしごをすきになるよ……)
(『かわり』にされたら……いとしごも、さいごは、ころされるよ……いとしごが、にんげんをやめないかぎり、いつかでぃあんぬは、いとしごをころすよ……)
あの時の下位の精霊たちの言葉が、耳に蘇る。
数えきれない程、自分自身の気持ちを自問自答してきた。
だけど、答えはいつも同じで。
「――俺は……俺は、兄さんの『代わり』になりたい……代わりでいいから、あの人に、愛されたい……!」
例え、それが、人間であることを捨てることであったとしても。
ミーアや、ミーアのご両親の好意を踏みにじることであったとしても。
人間としての倫理に、反することであったとしても。
俺は、どうしても、この想いだけは捨てられない……!
――レイ。君は俺の恋を、呪いのようだと言ったね。
本当に、その通りだと思うよ。
俺はディアンヌを見た瞬間、初恋の呪いに掛かったんだ。
理性も常識も、全てが崩壊してしまうくらい激しい呪いに。
きっと、俺は死ぬその瞬間まで……否、きっと死んだとしても、この呪いを解くことはできないんだろう。
昨年の夏。とうとう、俺はディアンヌに会いに行くことにした。
改めて実物を見たら、幻滅して呪いも解けるんじゃないかって、心のどこかで期待しながら。
……だけど、やっぱり、無理だったよ。
湖に行った時、ディアンヌはあの日と同じように、ほとりで泣いていた。
違ったのは、あの日と違ってディアンヌの傍には、誰もいなかったこと。
一人ぼっちで孤独に泣くディアンヌは、あの日よりも表情がどこか虚ろだったけれど、記憶よりもなお美しくて。
どうしようもなく、俺の心を惹きつけて。
俺は、あの日掛けられた呪いが、一層強固なものになったことを、感じずにはいられなかった。
「……ねえ、どうして、君はこんなところで泣いているの?」
ディアンヌの瞳が、初めて俺のことを捉えた。
……成長した俺の姿は、髪の色以外は全く兄と似ていないけれど、それでも少しでも兄と重なって見えたりはしないかな?
俺は、どちらかといえば真面目で頭が固かった兄が、けして浮かべない緩い笑みを浮かべながら、そんな馬鹿なことを考えた。
「こんな綺麗な女の人が、一人で泣いているなんて放っておけないな。……俺で良かったら話を聞かせて?」
「――そうやって俺は、君と出会い直したんだよ。ディアンヌ」