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まるでそれは水の中に落ちるように

 月が明るい夜だった。

 特にその瞬間は、雲に半分隠れていた月が、風によってちょうど全貌露わにした時で、俺は、月明かりに照らし出されたその光景をはっきりと目の当たりにした。

 兄ディックは、まるで蛇に巻き取られた獲物のようくぐもった声を上げながら、必死に手足を動かして暴れたが、体に巻きついた水は解けることなく、やがて、ぐったりと動かなくなった。

 十歳の俺はその光景を、助けに行くことは勿論、瞬き一つできずにただ立ちすくんで見つめていた。

 目の前で行われた、人外の生き物による殺人に恐れを抱いたからじゃない。

 腹違いの兄の死に、激しいショックを抱いたからでもない。


 正直に言うよ。……その時、俺は、見惚れていたんだ。


 自分でも頭がおかしいと思うけれど、目の前で起こっている恐ろしい事件に意識をやることもできないくらい、ただ心を奪われていた。


 月明かりに照らされた、水を操りながら涙を流している、女の人の姿が……ディアンヌの姿が、あまりに美し過ぎて。


 俺は呼吸も忘れて、ただディアンヌと、ディアンヌによって兄が殺されていく様を見つめることしか出来なかった。


【……ディック……もう、貴方の耳には、私の声は届かないのね……】


 兄が動かなくなるのを待って、その体に絡みつかせた水を解いたディアンヌは、震えた声でそう呟きながら、動かなくなった兄の体を抱きしめた。


【……もうその手は、二度と、私を抱きしめてくれないのね……もうこの目は、二度と、私を見つめてくれないのね……もうこの唇は、二度と、私に愛を囁いてくれないのね……】


 兄の手、瞼、唇の順に、ディアンヌは薄桃色の唇でそっと口づけを落とす。


【……私、人間だったら、良かったわ……人間に、生れたかったわ……】


 最後に兄の手を自分の頬に当てながら、ディアンヌはくしゃりと顔を歪めた。


【……人間だったら、私は死を選んでも、誰も道連れにすることはなかったのに……貴方の願い通り、貴方の為に、死んであげられたのに……!!】


 ディアンヌの慟哭が、湖畔に響き渡った。

 ディアンヌは絹を裂くような声を上げて、俺の存在に気付くことなく、ただ泣き続けていた。

 失った愛を嘆く、悲痛に歪んだその顔に、胸をしめつけるような、その慟哭に、俺はどうしようもなく惹きつけられた。

 兄を想って泣く彼女が、悲しくて、愛おしくて……まるで何かに酔ったかのように頭がくらくらした。

 こんな気持ちを抱いたのは、生れて初めてのことで。

 ただディアンヌしか、見えない。ディアンヌのことしか、考えられない。


 どうか泣かないで。

 貴女は、一人じゃないよ。

 俺が、ここにいるよ。

 ずっと俺が一緒にいてあげる。貴女が淋しくないように。

 だから、お願い。笑った顔を、俺に見せて。

 貴女の笑顔が見たいんだ。


 もし、下位の精霊達が止めなければ、俺はただ本能が命じるがままに、ふらふらとディアンヌの前に出て行って、そんな言葉を囁きながら彼女の体を抱きしめていただろう。

 だけど、俺の周りを飛び交う精霊達が、そんな俺の考えなしの行動を許さなかった。


【だめだよ……いとしご……いま、でぃあんぬのそばにいったら『かわり』にされるよ……】


【みずのせいれいは、みな、いとしごがすきだよ……だからきっと、でぃあんぬも、いとしごをすきになるよ……】


【『かわり』にされたら……いとしごも、さいごは、ころされるよ……いとしごが、にんげんをやめないかぎり、いつかでぃあんぬは、いとしごをころすよ……】


 そんな精霊達の言葉が、俺を我に返らせた。


 そうだ。彼女は呼吸を忘れるくらい美しいけど、人間じゃない。

 愛した男を、裏切ったからといって殺してしまう、恐ろしい精霊なんだ。

 軽々しく、愛を囁いたら、俺も兄の二の舞を踏むことになる。恐れて、近づかない方が賢明だ。


 ――ああ、それなのに。

 それを分かっていても、なお。

 どうして、彼女はこんなにも美しく見えるのだろう……。

 どうして、こんなにも、俺の心を惹きつけるのだろう……!!




【――水の大精霊様の御言いつけで、ここに参上いたしました】


 ディアンヌの嘆きの声に割って入るように、不意にしわがれた声が辺りに響いた。

 声の方に視線をやると、そこにいたのは湖から這出たらしい、一匹の白い大蛇。

 大蛇はその口元から細長い舌をちょろりと出すと、ディアンヌと、その腕に抱かれている兄の死体――そして、ほんの一瞬だけど、木陰に身を隠れている俺の方に視線をやった。


 ……気付かれた……?


【……ちゃんと水の精霊として生まれた宿命を果たされたようですね、ディアンヌ。結構なことです。……その死体の後始末は、大精霊様のご命令通り私が致しましょう。このままにしておけば、人間達に貴女の仕業かと疑われ、ひいては水の精霊全体への悪意に繋がりますから。ここから少し離れた、精霊があまり寄りつかない浅い水辺に捨てておきましょう】


 明らかに視線が合ったにも関わらず、何故か白蛇は俺の存在に言及することなく、そのまま会話を続けた。


【……遺体を、傍に置くこともできないの?】


【それを望むには、貴女は下準備が足りません。ゆっくりと時間を掛けて彼に関する周囲の記憶を消したうえでなら、それもありだったかもしれませんが……否、どっちにしろ、遺体を傍に置き続けるのは、貴女の精神を崩壊させる恐れがあるので、許可はできません。大精霊様も同じように判断されたでしょう】


【……そう】


 ディアンヌは暫く唇を噛みしめて苦渋に満ちた表情を浮かべて、兄の死に顔を見つめたあと、そっとその唇に口づけを落とした。


【……さようなら。ディック……愛していたわ……】


 そうして、静かに、兄の死体を地面に置いた。

 白蛇が……水の愛し子の俺にも分からない不思議な音の呪文を唱えると、空中に光輝く転移の魔法陣が現れて、瞬く間に兄の遺体を吸い込んで消えてしまった。

 ディアンヌは魔法陣が消えた辺りをじっと見つめながら、再び声を上げて泣いた。


【……さて、これで、大精霊様に命じられた仕事が一つ終わりました】


【……まだ、何かあるというの?】


【ええ。ディアンヌ。……大精霊様は、貴女が自ら愛した男の記憶を消せない場合、私が代わりにその役目を果たすようにとおっしゃりました】


 白蛇の言葉に、ディアンヌは涙に濡れた蒼白な顔を、一層青くした。


【いやよ!!……ディックのことを忘れるだなんて、絶対にいや!!】


【しかし、水の精霊が、愛した人間を失った記憶を……しかも自らその命を奪った記憶を、背負っていくのは、重すぎます。精霊の……特に水の精霊の心は、人間のそれよりずっと脆弱で、負の感情に染まりやすい。……辛い記憶から精神を壊した貴女が、悪霊に変じて他の生き物を害す前に、記憶を消去すべきだと、大精霊様はご判断されました】


【私が精神なんか壊さないわ!! 悪霊なんて、絶対にならない!!……だから、お願い……ディックのことを、覚えたままにいさせて……!!】


 ディアンヌは啜り泣きながら白蛇に懇願した。


【……初めて、愛した人なの……全てがいいものばかりではなかったけど、ディックに出会って、私は知らなかった色々な感情を教えてもらったの……忘れたくない……どうしても、私はディックのことを忘れたくないの……!!】


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