アーシュの回想
6歳の頃女手一人で育ててくれたお袋流行病で死んで、俺は生まれてから一度も会ったことがない貴族の親父に引き取られることになった。
親父が俺を引き取ったのは、父親としての僅かな愛情とか責任感とか、そういった綺麗な理由は全くなくて、単に俺が「水の愛し子」だったからでしかなかったんだろうと思う。セドウィグ家は代々水魔法の使い手として有名で、庶子とはいえ俺ほど水属性の適性がある人間はいなかったから、まあ後継者としては据えないまでも、息子として引き取っておけばセドウィグ家にとって利用価値があると思ったんじゃないかな。
引き取るだけ引き取ったら、親父は俺のことは教育に関して以外はてんで無関心で、義理のお母さんになった本妻さんは俺のことを視界に入れるのも嫌がるくらい嫌ってた。……まあ、自分の旦那を誑かした(俺は絶対スケベ親父が、身分を笠に着て無理矢理お袋に手を出したと思ってるんだけど)女の息子なんて可愛いと思えるわけないよな。一応俺は昔から、わりと愛想がいい人好きがする子どもだったんだけど、本妻さんにはてんで通じなかった。……わりと頑張って可愛い子ども演じてたのにさ。
本妻さんは、まだ幼い腹違いの弟を、徹底的に俺に近づけないようにしたし、当時この学園に通っていた兄は長期休みしか帰って来なかったうえに、突然できた腹違いの弟の扱いに戸惑って、やっぱりあんまり近づいて来なかった。
家で働く人たちも、本妻さんの怒りを恐れて俺に必要最小限しか関わらないようにしてたし、それまで平民の立場とはいえお袋は勿論、ミーアやミーアの両親にも可愛がってもらっていた俺は、いきなり孤立してしまったわけ。
今なら、結構割り切れるだけど、当時はそれが苦しくて仕方なくて。寂しくて、悲しくて。
……寂しさを紛らわすように、俺は夜になるとこっそり屋敷を抜け出すようになった。
夜の森が怖い? そんなこと思う訳ないさ。だって、俺は「水の愛し子」だもの。
森に出るといつも、下位の水の精霊達が大喜びで俺を迎えいれてくれたんだ。
下位の精霊って見たことある? 蛍みたいに小さな丸い光の形状で、ふわふわ飛んでるんだけど、あんまりしゃべりは上手くないけど、すごく優しくて可愛いんだ。
俺が淋しいって泣く度、慰めてくれて、時々昼間も屋敷まで遊びに来てくれた。
そうやって、水の下位精霊や、時々気まぐれに姿を見せる他の属性の下位精霊達に癒やして貰いながら、俺は四年間、あの冷たい家族の中で生活していたんだ。たまにミーアも遊びに来てくれたり、手紙をくれたりしたけれど、本妻さんが俺が家の現状話して外聞が悪くなるのを恐れたせいか、あんまり会わせて貰えなかったから、当時の俺の一番の心の支えは下位の精霊達だった。
だけど、六年前の夜。俺は初めてそんな精霊達に拒絶されたんだ。
【いとしご……きょうは、だめだよ……きょうは、あそべない】
【いえに、かえって……きょうは、もりにいては、いけないよ】
「……そんな、どうして!」
【……でぃあんぬが、おこってる……おこってる?……ちがう、かなしんでいる…】
【でぃあんぬはやさしいけど、おこると、とてもこわいの……ちかづいては、だめ……】
【ちかづいたら、いとしごがころされるかもしれない……いとしご、あぶない……ちかづいたら、だめ……】
その時俺は、四年間森に通っていて初めてディアンヌの名前を聞いた。
ウンディーネに魅入られ、一度でも愛を受け入れた人間は、その愛を裏切った瞬間に死ななければならない。そんな定めを知っていたから、下位の精霊達は「夜の湖に近づくのは危ないから」といって俺をディアンヌの住む湖に近づけようとしなかった。愛し子に生まれ、水の精霊に愛される素質を持った俺が、ウンディーネに魅入られて命を落とすことがないように。
そんな事情は当時の俺には分からなかったけれど、仲が良い友人達が嫌がるならと落ち込みながらも踵を返そうと思った時、俺は森の中に見覚えがある姿を見つけた。
「……兄さん?」
長期休暇を利用して帰省していた兄が、ひどく深刻な表情で森の奥に足を進めているのを、そこで偶然見つけてしまったんだ。
兄、ディックは俺のことなんて微塵も気が付かずに、少し離れた場所を通り過ぎて行ってしまった。
一体、こんな夜中に、あんな顔をして、どこに行くんだろう?
そう思ったら、むくむくと好奇心が膨らんできて、俺は屋敷に戻るのを止めてこっそり兄の後を追いかけることにした。
【……だめ!! いとしご!! そっちへいっては、だめ!!】
【でぃあんぬのみずうみに、いってはだめ!!】
「――みんな、静かにしてよ。兄さんに聞こえてしまうかもしれないだろ」
耳元で騒ぐ精霊達をいなしながら、兄の跡をつけた。
兄は思考に集中しているのか、全く俺のことに気付いていなくて、それがたまらなく面白くて仕方なかった。
俺にとっては、それはちょっとした冒険のつもりだったんだ。
【いとしご!! だめ!!】
「だから、うるさいって……あーあ。みんながうるさいから、兄さんを見失っちゃったよ」
まあ、でも見失ってそう時間は経ってないから、さして遠くは行っていない筈だ。
俺は精霊達の静止を振り切って、木を掻きわけて進み――そして、見てしまった。
「――っ!!」
「……ディアンヌ。すまない。俺はお前のことを愛している……だけど、俺は大切に慈しんで育ててくれた家も捨てられないし、人間であることも捨てられない……だから、この方法しかないんだ……っ!!」
叫びだしそうになるのを、両手で口元を抑えることで、何とか耐えた。
冷たい汗が全身を伝い、心臓が煩くなった。
木を掻き分けて、飛び込んできた光景。
――それは、月明かりに煌めく湖のほとりで、髪の長い美しい女の人の腹部を、短刀で突き刺す兄の姿だった。
【……私を殺す気なの? ディック。……分かっているの? 私が死ねば、この辺り一帯の水という水はなくなるのよ】
女の人は、腹部を短刀で突き刺されているとは思えないほど落ち着いた澄んだ声で、兄にむかってそう問いかけた。
「分かっている……だけど、お前が宿命に逆らえない以上、俺にはこうするしかないんだ」
兄はそう言って、泣きそうに顔を歪めた。
「領土一帯の水は無くなるかもしれない……けれど、セドウィグ家は皆水属性一族だ。一族の能力があれば、きっと無くなった分の水も賄える……それに、最近父上が引き取った、腹違いの弟アーシュは『水の愛し子』だ……お前がいなくなったこの地に、新しい高位の水の精霊だって連れてくることだって、できるかもしれない……」
だから。そう言って、兄は短刀を一層深く、女性の腹にねじ込んだ。
「……だから……許してくれ、ディアンヌ!! どうか、俺の為に、死んでくれ……!!」
兄の懇願に、女の人も泣きそうな表情を浮かべた後、弱弱しく笑った。
【――馬鹿ね。ディック。こんな退魔の短刀なんかで、私を殺せると思うなんて】
「……っ」
その言葉と共に、兄は湖の中に倒れ込んだ。
まるで女の人の体を突き抜けたかのように。
【私の体は水で出来ているのよ……どんな特別な力を持っていようと、短刀なんか通じるわけがないわけないじゃない……それに曲がりなりに、高位精霊である私の死は、貴方が思う程簡単に対処できるものではないわ……精霊が死んだ瞬間、司っていた一帯の土地は、呪われてしまうのだから】
女の人が兄に向って手を翳した瞬間、湖の中の水が突然盛り上がって、蛇が獲物を飲み込むように兄の全身を包み込んだ。
【ディック……何故、裏切りを肯定するような言葉を発したの? 言わなければ、まだ、私は宿命に縛られずに済んだのに……貴方を殺さずに済んだのに……っ!!】




