ウンディーネとの対峙
……くすぐったい。
頬を舐められる感触で目を醒ました
「……フェニ…?」
目を開くなり、視界にさかさまのフェニの顔が見えた。
辺りから漂う、草と土の香り。
生い茂った草が、風に揺れて手足に当たる。
「……ここ、は……」
一瞬、何故自分がこんな所にいるのか分からなかった。
ここはどこだろう……森、かな?
学校の近くに、こんな深い森があっただろうか。
空を見上げると、日が沈みたてのまだ薄明るい空に輝く細い三日月が見えた。
……あれ、いつの間に日が沈んでいたのだろう。さっきは、まだ……
「――アーシュ!!」
そこでようやく、自分がここにいる理由を思い出した。
アーシュを追って、転移魔法の魔法陣の中に、飛び込んだのだった……!!
私は慌てて草塗れの体を起こして、服についた土を払い落とす。
転移魔法の衝撃で、一時的に気を失っていたらしい。
だけど、空の様子を見る限り、まだそんなに時間は経っていない筈だ。
しかし森は広大で、見える範囲に視線をやっても、アーシュの姿は見つからなかった。
ウンディーネの領域なだけあって、辺りには無数の青い粒子が飛び交っており、残念ながら魔力の痕跡でアーシュの後を追うのも難しそうだ。
「……フェニ。君はアーシュがどっちの方向に行ったのか分かるかい?」
私の問いかけに、フェニは首を縦に振った。
良かった……フェニは私のように、転移魔法の衝撃で気を失ったりはしなかったようだ。
「……もし、君さえ嫌じゃなければ、魔具を外すから、その背に乗せて私をアーシュの元まで連れて行って欲しい。一刻を争う事態なんだ」
角に装着していた魔具を外すと、途端にフェニの体は白い光に包まれて、膝に乗る程の大きさから、元の大きさに戻った。
フェニは前足を上げて一度高くいななくと、私がその背に跨りやすいように状態を落としてくれた。
「ありがとう。フェニ」
乗馬には慣れているものの、鞍がないフェニの背中はとても座りにくかった。
それでも何とかその背に跨り、フェニの首元の辺りに捕まる。
「……それじゃあ、フェニ。頼むよ」
夜の森を、フェニの背中に跨って、ひたすら駈けた。
乗馬のように、フェニを操る必要はなかったし、そもそも、そんな余裕もとてもなかった。
フェニはどんな足元が悪い場所でもスピードを落とすことなく、滑るように軽やかに走ったし、私はフェニの背から投げ出されないようにしがみ付くだけで精いっぱいだった。
いくつもの木々の間を抜け。
小川を渡り。
倒木を飛び越え。
生い茂る茂みを突っ切り。
――そして、ようやく見つけた。
【……ああ。アーシュ。もうすぐよ。もうすぐ、貴方は完全に私の物になるの……次に目が醒めた時は、貴方の人間としての生は終わっているわ……二人で共に、ずっとここにいましょう?……永劫に近い年月を共に重ねていきましょう?……】
三日月を水面に映し出しながら、星明りで煌めく澄んだ湖の中に立つ、翡翠色の長い髪をした美しい女性。
人間にはない幻想的な美しさを持つその人は、自身の魔力で作られた青い繭のような塊を胸に抱きながら、嬉しそうに微笑んでいた。
【ずっと、ずっと一緒よ。アーシュ……そう言ってくれたものね……ずっと一緒にいてくれると、約束してくれたもの……だから、いいわよね?……勝手に貴方を私の眷族にしても、許してくれるわよね……?】
「……ウンディーネ」
魔力に包まれて眠るアーシュに接吻を繰り返していたウンディーネは、私の呼びかけに驚いたように目を見開いて、藍色の瞳をこちらに向けた。
【あなたは……】
「……やあ。はじめまして。ウンディーネ」
フェニの背中から降りて、湖の淵に立って挨拶をした私に、ウンディーネはひどく困惑げな表情を浮かべた。
【あなたは……誰? どうして私の森の中にいるの?】
「私は、レイリア・フェルド。その……アーシュの友人だ」
友人だと口にした途端、ウンディーネの顔が般若のように歪み、まるで取られまいとするかのようにアーシュの体をかき抱いた。
【あなた…あなたは、私からアーシュを奪いに来たの!?】
「違うよ。ウンディーネ。……私はただ、君と話しをしに来たんだ」
【……話?】
「そう。話を。……私は、君とアーシュの話が聞きたいんだ……私が、彼のことを忘れてしまう前に」
ウンディーネを刺激しないように、優しい穏やかな口調で尋ねながら、安心させるように笑みを作る。
【……アーシュのお友達……あなたは何の話を、聞きたいの?】
ウンディーネは私を信用したわけではなさそうだったが、それでも「忘れてしまう」ことを強調したのが功を成したか、即座に攻撃を仕掛けることもなく会話に応じてくれた。
もしかしたら、彼女自身も、自分とアーシュのことを誰かに話したかったのかもしれない。
「君とアーシュの関係を。……君とアーシュは一体いつ出会ったんだい?」
【……一年前の、夏よ。いつものように、湖から出て水辺で泣いていたら、森を散歩していたアーシュに、出会ったの。アーシュは泣いている私のことを慰めてくれたわ。慰めて……俺でいいなら、ずっと傍にいるって、そう言ってくれたの】
「……何故、君は泣いて?」
【――愛しい人を、この手で殺したから】
ウンディーネは声を震わしながら、縋るようにアーシュの体に頬を寄せた。
【……六年前。私は生まれて初めて愛した人間を殺したの。……あの人は……ディックは、私を、裏切ったわ。私だけを愛していると、そう言ってくれたのに、やっぱり家を裏切れないと言って、私を捨てようとしたの。……ウンディーネは、愛した相手の裏切りを許せない。そういう風に宿命づけられている生き物だから。愛する人から裏切られた場合、愛する人を殺すか、司る一帯の水ごと滅びるかしかないの。……そして、私は愛する人を殺す道を選んだのよ】
「……君は、記憶を操作ができるんだろう。それなのに、どうして殺した相手のことを、今もまだ覚えているんだい? 忘れてしまった方が、楽だろうに」
図書館で借りた図鑑のウンディーネの項目には、続きがあった。
【愛する者を殺したウンディーネは、自身の精神を守る為に、自分自身の記憶を操作して、愛した相手の記憶を忘れる】
それなのに、どうして彼女はまだ、アーシュの兄のことを覚えているのだろうか。
【……そうね。大抵のウンディーネは、自分自身に忘却の魔法を掛けて、愛した人がいたこと自体を忘れる道を選ぶわ……だけど。私はいやだったの】
ウンディーネは自嘲するように笑った。
【忘れたくなかったの……辛い結末でも、それでもディックを愛したこと自体に悔いは無かったから。……愛し合った日々の記憶は、かけがえのない物だったから。……あんなに誰かを愛したのは生まれて初めてだったから。……だから、身が裂けそうになるくらい苦しくても、覚え続けることにしたの】
そう言って、ウンディーネは過去を反芻するかのように目を伏せた。
【だけど、愛した人を殺した記憶を覚え続けるのは、やっぱり辛くて……五年間、ただずっと泣いてばかりいたわ。……こんなに苦しいのなら、もう誰にも恋なんてしないと、そう思っていた。このままずっと一人で生きて行こうと……だけど、アーシュに出会って……アーシュに優しくされて、私はまた恋に落ちてしまった……】
「……アーシュは、君が愛した人を殺した過去を、知っているのかい? 君の正体のことは?」
【……どちらも、言えるわけないでしょう。そんなこと、アーシュに知られたら、私はアーシュに嫌われてしまうわ。嫌われたら……私はアーシュのことを、ディックの時と同じように、殺さなければならなくなる……】
ウンディーネは悲痛に顔を歪めながら叫んだ。
【もう、嫌なのよ……愛する人を、この手で殺すことだけは、もう二度としたくないの……!!】




