目と耳を借りて
放課後。
私は先日のように、アーシュの教室の前を訪れていた。
「……それじゃあ、フェニ。これからしばらくの間、君の目と耳を貸して貰ってもいいかい?」
私の言葉に、フェニはただ静かに私を見上げた。
本当にいいのかと、確認するかのように。
「頼むよ。フェニ。……例え明日になれば忘れてしまうことだとしても、私は、今この瞬間に後悔したくないんだ」
精霊の記憶消去の力は、増々強くなってきている。
今の記憶も、アーシュのことを諦観する苦い気持ちも、多分明日になれば忘れてしまうのではないかと思う。
……アーシュにとって、一番近しい存在であるミーアの思い出が消えたということは、きっと精霊憑きは最終段階に入ってきている。
明日になれば、きっとアーシュ・セドウィグという人間を覚えている人は、アーシュ・セドウィグという人間が生きた痕跡は、この世のどこからも消えてしまうのだろう。
それは予感というよりも最早、確信だった。
迷っている時間なんかない。今、自分が出来ることをしなければ。
……例えそれが、成功するか分からない賭けだとしても。
「フェニ。……お願いだ。精霊が見えない私には、どうしても君の力が必要なんだ」
私の願いに応えるように、フェニは小さく鼻を鳴らすと、そっとその頭を私の方に突きつけた。
……これは、鬣を撫でろということかな。
いつものように、その真っ白な鬣に掌を埋めた瞬間、視界が揺れた。
「……っ」
思わず上がりそうになる声を飲み込み、フェニの鬣に片手を埋めたままに、床に膝から崩れ落ちた。
視界が、回る。
様々な色や光が、目の前を通り過ぎて行く。
視界だけじゃない。耳もおかしい。
音程を意識することなく、ただ鈴を鳴らした不協和音が、大きさを変えて響いているようだ。
一秒が、まるで一時間にも思えた。
歯を食いしばって、ただ体に差し迫った異常に耐えていた時、不意にスクリーンが目の前に現れたかのように、かちりと視界が定まった。
視界から一瞬遅れて、きーんとした音を引くような耳鳴りがおさまった瞬間、不協和音も聞こえなくなる。
私は激しく早鐘を打つ心臓を収めるように大きく息を吐き出すと、そっとフェニから手を離した。
「……これが、フェニが見聞きしている、世界」
――青い。
それが、最初の第一印象だった。
先ほどとは変わらない、いつも学園の景色。その中にまるで粒子のように細かい青い何かが舞っている。
そして、その青い何かは明らかにアーシュがいる教室の方から発せられていた。
これはもしかして、ウンディーネの魔力、なのだろうか。
フェニの目は、精霊だけではなく、魔力までも見えるのか。
「……フェニ。今、私は君の目と耳を貸して貰っているわけだけど、君の方には何か問題はないかい? 目と耳がおかしくなってたりはしない?」
私の言葉を否定するように、フェニは鼻を鳴らして首を横に振った。……良かった。フェニには問題は無かったようだ。
お礼の気持ちも込めてフェニの鬣を一撫でしてから、改めて教室の扉に向き直った。
教室に入る前に、一度扉に耳を当ててみたが、特別何も聞こえなかった。今のところ、視界とは違って聴覚には特別な変化は見られない。……これは、精霊がこの近くにはいない証だろう。
「そうか……ウンディーネは生まれた水場を離れられないんだったな。何らかの形で、遠隔操作をしているのか」
……ならば、取りあえず扉を開けた瞬間、そこにウンディーネがいるという展開はないというわけだ。
遅かれ早かれ、対峙しなけらばならない相手ではあるけれど、それでも少し猶予が貰えたことに安堵する。
「……失礼します。アーシュ、いるかい?」
扉を開けても、前回はアーシュがどこにいるのか分からなかった。
だけど、フェニの目を通して見ると、今回はすぐにアーシュの居場所が分かった。
「やあ。レイ。……来ると思ってたよ」
そう言ったアーシュの体は、まるで繭のように全身を包み込む、青い粒子で覆われていた。
その異様な光景に思わずあげそうになった声を飲み込み、私は青い粒子の塊に向かって笑みを作った。
「……なんで、来ると思ったのか聞いてもいいかい?」
「だって、今朝ミーアが泣いていたでしょ」
……あまりに青い粒子が濃すぎて、アーシュがどんな表情をしているかもよく見えないな。目を凝らしてみたら、うすぼんやり透けて見えなくもないけれど。
何というか。改めて、ウンディーネのアーシュに対する執念を感じさせられる。
「俺のせいでミーアが泣いたのだから、きっとレイは俺のことを叱りに来ると思ってたよ。……怒られるのはいやだから、本当は気配を殺して隠れてようと思ったけれど、あっさり見つかっちゃたな」
ほら、俺存在感薄いからさ、前みたいに気付かないかと思ってた、と笑うアーシュの言葉がどこか白々しく響いた。
「……怒られるようなことをした、自覚はあるんだな」
「え、だって、そうでしょ? ミーアは俺の為に泣いて……」
「ミーアが君の為に、何が原因で泣いているか、アーシュ、君は知っているのか?」
青い粒子の向こうで、アーシュの笑みが引きつったのが分かった。
……知っているのか。やっぱり。
「アーシュ。私はね、君が好きな相手が……君が『あの人』と呼んでいた相手がどんな存在か、分かったよ」
「え……」
「分かったからこそ、聞きたいんだ。……君は、『あの人』が一体どういう存在で、今一体何をなそうとしているのか、知っているのか?」
ずっと、疑問には思っていた。
周囲にどれほど忘れられても、どれほど存在感が薄れても、アーシュはそのことを気にしている体は全くなかった。当たり前のように、身の周りに起こる異常を受け入れていた。
何故アーシュは、そんな平静でいられるのか。私には不思議で仕方なかった。
そう思いながらも、そんな異常な反応自体がそもそもウンディーネの精神操作によるものなのかと、今までは勝手に納得していた。
だけど、もしそうでないならば。
アーシュが全て分かっていて、ウンディーネがすることを受け入れているのならば。
「アーシュ。君が全て分かっていて、納得しているならば、私は何も言えない。それはもう、君と『あの人』だけの問題だから。私が出来ることは、ただ悲しむミーアを慰めることだけだ。……それも、もしミーアが君のことを忘れていなかったら、の話だけど」
「………」
「だけど、君が何も知らずに、『あの人』を普通の人間だと思って恋をしたのなら、話は別だ。フルーリエ先生は、知らなかったことは理由にならないと言ったけれど、私はやっぱりそれはフェアじゃないと思う。精霊の恋のあり方と、人間の恋のあり方が、違うのは仕方ないことだから。君が意志に反して無理矢理、『人ではないもの』に変えられているのならば、私は何とかしてそれを止めたい。いや、止めなければならないと、そう思うんだ。……君を忘れたくないと、泣くミーアの為にも」
「………俺は……」
アーシュは暫く言葉に詰まったように黙りこくってから、静かに口を開いた。
「――初めて出会った時、あの人は泣いていたんだ」
「……う、ん?」
「愛しい人を失くしたことを嘆く、あの人が切なくて……どうしようもなく淋しそうで……一緒にいてあげたいと、そう思ったんだ」
「……アーシュ……?」
「……ずっと一緒にいて……一人じゃないよ、俺がいるよって、そう伝えて……そして、俺はあの人の……」
次の瞬間、続く筈だったアーシュの言葉を覆い隠すように鐘を鳴るような高い音が響いた。
まるで、脳内に直接響くような、そんな音だった。
「――時間、だ。……あの人が、呼んでいる」
ぽつりと呟くように発せられたアーシュの声は、いつの間にか無機質で抑揚がないものに変わっていた。
「行かなきゃ……あの人の所に」
「アーシュ!?」
ひも状になった青い粒子が、まるで操り人形を操る糸のように、アーシュの体を動かしているのが見えた。
アーシュの体が引っ張られていく先にあるのは、やはり同じように青い粒子で象られ光を発している魔法陣。――転移の魔法陣だ。
行先はきっと、セドウィグ家の領地。……ウンディーネが住む水場。
きっと、この前も、こうやって転移によって、教室からいなくなっていたのだ。
「アーシュ!!」
アーシュの体が、魔法陣に飲み込まれていく。
迷う暇なんか、なかった。
私はフェニと共に、アーシュの後を追うように、魔法陣の中に飛び込んだ。
※意味的にわかりにくい部分があった為、一部訂正しました。




