精霊学の先生
※召喚術の授業で前述した緑色の光を放つ属性を、木属性から風属性に変更しました。
※土属性を地属性に統一しました。
「……やっぱり、ここしかないよなあ」
私は腕の中にフェニを抱きながら、扉の前で肩を落として溜息を吐いた。
……普通の扉にしか見えないのに、前に立つと不思議な威圧感のように感じるのは一体何故だろう。まるで、目に見えない何かに拒絶されるかのようなこの感覚は。
扉に掛けられて揺れる木札に書かれている名称は「精霊学研究室」……我が学園で精霊学を教えているフルーリエ先生が、授業外で過ごしている部屋だ。
放課後、後学の為に興味がある研究室を訪れる生徒は少なくないし、学園側もそれを歓迎している。中には、助手のように先生の研究を手伝っている生徒までいるくらいだ。
けれど、精霊学の研究室を訪れる生徒は、滅多にいない。それは、精霊学がテストにおいてはあくまでオマケ問題のように扱われているのも……そしてフルーリエ先生自身が、個性が強い教師陣の中でも際立って個性が強い方であるのも理由の一つだが、どうも先程のアルファンスの話を聞く限り、「精霊に拒絶されている」という部分もあるのだろう。
大きく息を吸い込んで、ノックをしようとして、手を止める。もう何度この動作を繰り返しただろう。
精霊学の辞典には、精霊憑きのことは書かれていても、その対処法は書かれていなかった。だから、詳しい対策を練る為には、やはり専門家の助言が必要となる。
分かっているのに、体が勝手に硬直する。ただ、ノックをして部屋に入る、それだけのことが出来ない。
額に滲む、汗を拭って再びノックをしようと手を上げた瞬間、内側から扉が開いた。
「――何をしているんだい。さっきから、私のクオルドが騒がしくて仕方ないじゃないか。入るなら、さっさと入りな!!」
「フルーリエ先生……」
中から皺だらけの顔を一層くしゃくしゃにして、呆れたように叫ぶフルーリエ先生を見た瞬間、全身の力が抜けるのが分かった。
不思議なことに、フルーリエ先生に中に入るのが許された途端、先ほどまで感じていた威圧のようなものが一瞬にしてなくなったのだった。
「失礼します……」
一礼をして研究室の中に入ると、精霊学に関する本がいっぱい詰まった本棚の間に、読みかけの本が置かれた机とソファがあるのが見えた。
フルーリエ先生は顎でソファの方をしゃくった。
「何か、質問があって来たんだろ? あんたが連れているユニコーンと一緒に、そこに座んな。今、コーヒーを入れてやるから」
「あ、その……お構いなく」
「私が飲みたいんだよ。……長い話になりそうだからね。授業以外でそうそう人と話す事もないから、コーヒーでも合間に飲んでないと落ち着いて話もできやしない……ああ。分かった分かった。クオルド。ちゃんとあんたの分も別にいれてやるから。だから、大人しくするんだよ。私の生徒に悪戯したら許さないからね」
フルーリエ先生は目に見えない何かに話しかけるっと、60を超えているであろう齢に似合わない背筋の良さで、そのまま研究室の奥に入って行ってしまった。
私はフルーリエ先生の言葉に甘えてソファに腰を降ろし、フェニを脇に降ろした。
……そう言えば、フェニはフルーリエ先生には粗相はしないかな。
女性ではあるが、ご年配の方ではあるし……。うーん。フルーリエ先生なら、フェニくらい簡単にいなしそうだけど、一応抑えていた方がいいかな?
「…………」
カチャカチャと食器を動かす音と共に、コーヒーのいい匂いが奥から漂ってくる。
コーヒーの香りを嗅いでいるうちに、心の奥が自然と穏やかに凪いでいくのが分かった。
先ほど扉の前にいた時は打って変わり、この部屋の中には不思議な安心感があった。
「はい。……あんた、ミルクと砂糖は?」
「……あ、それではミルクだけ」
「ユニコーンには、一応水を持ってきたよ。……その子、名前はなんて言うんだい?」
「あ、フェニと、名づけました。」
「そうか。フェニ。……喉が渇いたなら、それを飲みな」
フルーリエ先生の手が伸ばされた瞬間、あ、と思った。
けれども、フェニは抵抗することなく、フルーリエ先生が鬣を撫でるのを享受していた。
……つまり、フルーリエ先生は、ご年配だけれど乙……いや、その想像はあまりに下世話で失礼な考えだ。深く考えるのはよそう。
「……何て顔をしているんだい。あんたは」
「……いえ、何でも」
「まあ、聞かなくても大体あんたが考えていることくらい、分かるけどね。私がユニコーンに触れられるのが、不思議なんだろ」
「い、いえ、そんなことは!」
「気にしなくて、いいさ。私がこの年齢まで男性経験が皆無だったことは確かだからね。……なんせ、私は半分クオルドと……風の精霊と結婚したようなものだからね。男なんかと付き合っていられないさ」
くつくつと喉を鳴らしながらフルーリエ先生が砂糖も入れないブラックコーヒーを口に含んだ瞬間、フルーリエ先生の白い髪を撫でるように優しく風が吹いた。
風が撫でた辺りを、フルーリエ先生は愛おしむように見つめて、撫で返すようにそっと手を動かす。
きっと、そこに風の精霊がいるのだろう。
「……その。私がここにいても、大丈夫ですか?」
「うん? 何でだい? 生徒が研究室に来るのは、いつでも歓迎だよ。そんな生徒、滅多にいないけどね」
「そうじゃなく……その、私は精霊に好かれないようなので、クオルドさんが怒るのではないかと」
私の言葉に、フルーリエ先生は飲み終えたコーヒーを机に置いて、紫の瞳で私を見つめた。
「……あんた、レイリア・フェルドと言ったっけ」
「!? 覚えていて下さったのですが」
「そりゃあ、男装で学園に通っている珍妙な生徒の名前ぐらい、私でも知っているさな。……そうでなくても、あんたみたいに、興味深い精霊との関係をしている生徒は、なかなかいないからね」
「興味深い……?」
「安心おし。あんたはクオルドに嫌われてはいないよ。寧ろあんたは風属性の適性が強いから、好かれている方だ。普通ならば、完全にとは言わなくてもぼんやりとクオルドの姿くらい見えるくらいにはね」
「っそれなら、どうして……」
「単純に、それらを上回るくらい、高位の火の精霊に『特別に』嫌われているのさ。精霊も人間とそうそうかわらない。他属性とはいえ力が強い精霊が嫌う人間がいれば、よほどその相手が好きでない限り、右へ倣えでその人間を忌避するものさ。『愛し子』くらい愛されてれば、話は別だろうけどねぇ」
……高位の火の精霊に嫌われている?
うん?それってもしかしなくても……。
「まあ、十中八苦『火の愛し子』のせいだろうね。あんたは、あの七面倒くさそうな王子様と随分仲が良いんだろう? ――精霊は嫉妬深いからねぇ」
やっぱり、アルファンス、君のせいじゃないかぁあああ!!!!
何が「お前が精霊に好かれないのが不思議だ」だよ!!
……というか、私は婚約者ってだけで、別にアルファンスと仲は良くないんだけど……あれで、精霊には仲が良く見えているのか。なんていうか理不尽だな。
「……そうですか。謎が一つ解けました。ありがとうございます」
「まあ、精霊に嫌われたからって、日常生活で特に困ることはないから安心をし。精霊は好きな人間には手を貸しても、嫌いな人間には関わらないから。害を成したりはしないよ。あんたには、フェニもいるし、精霊の力を借りなくても、別に支障はないだろう」
「……それを聞いて、安心しました。……個人的に精霊学は興味深い学問なので、あまり身につかないのはとても残念ですが」
「ふふふ。精霊学なんて一部の人間にしか役に立たない学問だって言われているのに、なかなか嬉しいことを言ってくれるね。……で、聞きたいのはそれだけかい?」
「いえ……今日は別のことが聞きたくて、ここにやってきました」
ミルクを入れたコーヒーを一口飲んで気持ちを落ち着けてから、本題を切り出した。
「今日は『精霊憑き』と、水の精霊である『ウンディーネ』についてお聞きしたくて、ここに来ました。……教えて頂けますか?」