忘れていく記憶と、覚えている人
アーシュ・セドウィグ
アーシュ・セドウィグ
アーシュ・セドウィグ
「……これだけ何度書きなおしても、数時間も経てば忘れてしまうんだものなあ」
私はノートのページいっぱいに書いたアーシュの名前を見下ろしながら、溜息を吐いた。
隣の椅子に寝転がっていたフェニが、興味深げにノートを眺めていたので、そっとその鬣を指で撫で上げる。
「フェニもおかしいと思うだろう?……て、言っても、君はアーシュの姿は見ていないから、分からないか」
撫でられると気持ち良さ気に目を細めて、もっとというように頭を手に摺り寄せて来たので、少し安心する。
……どうやら、機嫌は随分治ったようだ。
男嫌いのフェニがいたら、アーシュとまともに話せないと思っていたから、昨日はフェニには留守番をしてもらったのだけど、日が暮れるまで召喚されずに放置されたフェニはすっかりへそを曲げてしまった。
普段は休み時間や放課後以外は、別の【元々いた】場所にいるフェニだけど、今朝は魔法で帰ることは勿論、私から離れることすら拒否したので、仕方ないから先生たちに頭を下げて、授業中は大人しくさせることを条件に今日は一日中ずっと一緒にいることになってしまった。
……私に少し近づくだけで、フェニに威嚇されていた男子生徒達には、本当に申し訳ないことをした。(男性の先生や、既婚者の女の先生相手でも同様だったけど、みな怖がるどころか、ユニコーンを間近に見られることに興奮していたのは流石だと思う)
そんなわけで今日は極力他の人たちには近づかないでいいように、周囲に対する聞き取り調査とかはミーアに任せて、私はこうやって図書館でアーシュの状況について調べにきたわけなのだけれど。
「少し油断すると、すぐにアーシュのことを忘れてしまいそうになるから、なかなか調べものが進まないな……」
アーシュの名前を記入したページの隣には、アーシュの状況についても詳細に纏めている。
これを今日だけでいったい何度見直したことだろう。
何もしなければ、それほど極端には記憶は飛んだりはしない。だから、図書室に入るまえまでは、名前や外見に関する記憶以外はまだ大丈夫だった。
だけど、いざアーシュの状況に合った症例を本で探そうとすると、自分が一体何をしようとしていたのか霞がかったように記憶が曖昧になってしまったのだ。まるで、何か特別な力が、アーシュについて調査することを止めさせるかのように。
私はさらに大きな溜息を吐いて、再びノートに視線を戻す。
そこには私自身の体験や経験に加えて、ミーアの証言も記入してある。
ミーアが周囲に尋ねた限りでは、アーシュの存在感の薄れ方は、彼との親しさと反比例しているようだ。
親しくなければ親しくない程、元々の認識が希薄な分、アーシュのことを忘れるのも早いし、そしてそのことに違和感も感じにくい。……どうりで昨日初めて私が、アーシュをすぐに忘れてしまうわけだ
そうやって、じわじわと「アーシュ・セドウィグ」という存在を、周囲の人々の認識から消していき、最終的には誰からも忘れ去られるようになるのではないかと、ミーアは言っていた。
実際、ミーア自身も、最近ではたまにアーシュの存在を忘れかけている時もあると言う。
アーシュにとって、一番身近な存在であるミーアがアーシュを忘れてしまった時、それはきっと「アーシュ・セドウィグ」が消滅する。それこそがアーシュの想い人である「あの人」望むところなのだろう。
だけど、どうして?
一体、何が目的なんだ?
「――お前、アーシュ・セドウィグが好きなのか」
不意に背後から聞こえてきた低い声に、心臓が跳ねた。
すっかり思考に集中していた私は、いつの間にか肩越しに、アーシュの名前を書き連ねたノートを覗き込んでいた存在に気が付かなかった。
「……アルファンス?」
「――っ!! っちょ、レイリア!! お前、その変態獣抑えておけ!! 明らかに今、角で俺の目を狙ったぞ!! 待て、馬、おい!!」
「……フェニ。君がアルファンスを嫌いなのは分かったから、ちょっと落ち着いてくれ。ね? 良い子だから」
アルファンスの存在に気が付くなり、そのまま椅子を蹴って飛び掛かって行き、失敗して地面に着地してもなお、再びアルファンスに向かって行こうとしていたフェニの体を、後ろから慌てて抱いて持ち上げた。
腕の中でも、何とかしてもう一度アルファンスに飛び掛かろうともがいていたフェニだったが、そっと頬に口づけをしながら鬣を撫でて説得すると、大人しくなってくれた。
……ふう、これでようやくアルファンスとの会話ができるな。
「……何だい。アルファンス。その変な顔は」
「い、今、おま、その変態獣の、頬に……!!」
「? ただの親愛の挨拶だろう?」
暫く奇妙な表情で口をパクパクさせていたアルファンスだったが、どこか得意げな表情で鼻を鳴らすフェニの姿に苦虫を噛み潰すかのような表情を浮かべた。
「……変態獣め。絶対、そのうち契約破棄させてやるからな……」
「……それより、アルファンス。さっき何か変なことを言ってなかったかい? 私がアーシュをどうととか」
「――っそうだ……!! レイリア!! お前っ、お前は!!…………」
いつものように顔を真っ赤にして怒鳴りかけたアルファンスだったが、何故か途中で言葉を切って口を閉じると、そのまま何かに耐えるかのように目を伏せて唇を噛んだ。
「……俺は……俺は、この学園にいる間だけならば、別にお前が誰を好きになろうが、何も言わない。それが、一方的な片恋ならば猶更な。……だけど、アーシュ・セドウィグだけはやめておけ。あの噂を、お前だって聞いたことがあるだろ」
うん……意味が、分からない。
何を勝手に怒って、何を勝手に自己完結させているのかな?私にはさっぱりだよ。
そもそも、あの噂って、何で私が知っている体で話すのかな? 私は昨日がアーシュとの初対面だし、それまでは普通にアーシュのことを知らなかったのだけれど。
「……君が今の僅かな間に一体何を考えたのかは知らないけれど、私がアーシュのことを好きだと言うのは君の勘違いだよ」
「……だけど、お前、さっきノートにアーシュの名前を、あんなに……」
「……詳しくは話せないけれど、人から頼まれてアーシュのことを調べていただけだよ。ノートに名前を書いていたのは、綴りを間違えないように練習していだだけで、深い意味はないさ」
「……そうなのか……そう、だよな………お前は別に、アーシュを好きになったわけじゃないのか……」
どこか安心したような表情で一人ごちるアルファンスに、胸の奥が少しもやもやした。
……一応婚約者だからって、アルファンスの希望で公言はしてないのだから、多少別の相手に恋をしている噂が立ったところで問題ないだろうに。なんでこんな顔をするのかな。
「――それより。アーシュの噂って?」
胸のもやもやを振り払うように尋ねた疑問に、アルファンスは怪訝そうに眉を顰めた。
「……有名だから、お前も聞いたことがあるだろう? アーシュの腹違いの兄が、六年前に変死している話を。証拠がないから事故死扱いされているが、実際はアーシュが、セドウィグ家を継ぐ為にライバルである兄を殺したんではないかというのが一般的な見解だ」
「……いや、初耳だよ」
アーシュが、自分の兄を殺した?
しかも家を継ぐ為に? 貴族であること自体を嫌がっていた様子だったのに?
……どうも、しっくり来ないな。アーシュがそんなことをするようには思えな……うん? ちょっと待てよ。何か引っかかるな。
「……実際、兄の死因から考えても、当時のアーシュならば犯行は可能だったはずだ。僅か十歳とはいえ、あの時のアーシュは既に……」
「ちょ、ちょっと待ってよ。アルファンス」
違和感の正体は、すぐに分かった。
「何故、君はそんなにアーシュのことを知っているんだい? ……君はアーシュと親しかったのかい?」
親しくないものから、順に忘れていっているはずのアーシュの存在。
それなのに何故、アルファンスはこんなに鮮明に、アーシュの過去を記憶しているんだ?