初恋の呪い
「あの人…?」
「俺の好きな人で……初恋の人」
ぞくりと、肌が粟立つのが分かった。
アーシュから向けられる、灰色の瞳に篭る熱はどこか狂気に似ていたから。
「ねえ、白薔薇の君。君は、恋に落ちたことがある? 理性も常識も、全て崩壊してしまうような、いけないと分かっていても、止められないような激しい恋に。世界にその人しかいらないと思えるような、全てを敵に回してもよいと思えるような――どこまでも堕ちて行くような、そんな恋をさ」
「……それは、恋というより、最早呪いだな」
乾いた唇を舌で潤おしながら、引きつった声で発した私の言葉に、アーシュは目を細めた。
「そうだね。きっと、これは呪いなのかもしれない。……俺はきっと、あの人に初めて会った瞬間から呪われたんだよ。初恋の呪いにかかったんだ」
どこか陶酔したようなアーシュの言葉に、内心で溜息を吐く。
ああ……これは駄目だな。
もしアーシュの恋が、一時の気の迷いのようなものだったら、説得して目を醒まさせることも考えていたのだけれど、そんなので済むレベルじゃない。
まさに、「恋に呪われている」
私が何を言おうが、きっとアーシュには届かないだろうし、それはミーアだって同じだろう。寧ろこれは、下手に反対すればかえって燃え上がらせてしまうんじゃないだろうか。
どんな言葉を掛けたとしても、何をしても、きっとアーシュの心は変えられない。
彼の心は、すっかり「あの人」に奪われてしまっているのだから。
「……取りあえず、君がその「あの人」とやらを真剣に想っていることは伝わったよ。それが正しいかどうかは、どうであれ」
「安心して。白薔薇の君。俺はミーアにもミーアの家族にも、けして迷惑は掛けないから。それだけは誓うよ」
「……婚約破棄の時点で、迷惑は掛かるんじゃないか」
「俺とミーアの婚約は、あくまで内々のもので公にはなっていないし、それに……それに、詳しくは言えないけれど、ともかく絶対ミーアに婚約破棄の悪評が立つことはないからさ」
……なんで、詳しくは言えないんだと突っ込んでも教えてくれないんだろうな。これは。
「……取りあえず、信用しておくよ。君のミーアへの想いは本物のようだしね」
「ありがとう。白薔薇の君」
「……その白薔薇の君って渾名やめてくれないかな。そう言えば、まだちゃんと名乗ってなかったね。知っているかもしれないけれど、私の名前はレイリア・フェルドだ。気軽にレイと呼んでくれ」
「分かった。レイって呼ぶよ。俺のことも、アーシュって呼んで」
「……っ!?」
差し出した手を握り返された瞬間、思わず体が跳ねた。
「どうしたの? レイ? 俺、強く握りすぎちゃった?」
「……いや、なんでもない。大丈夫だよ」
笑みを作って手を離しながら、首を横に振る。
アーシュは怪訝そうな顔をしていたが、それでも何とか誤魔化されてくれたようだった。
「……それじゃあ。私はミーアの話をしに来ただけだから、この辺で帰らせて貰うよ。良かったら、また話させてくれ。ミーアの状況も知りたいから」
「レイは、ミーアの良いお友達なんだね。……分かった。また何か話があったら、放課後この教室に来て。俺はいつもこの時間は、教室で本を読んでいるからさ」
見送られるように教室を後にし、扉が閉まったのを確認すると、私は教室の扉が見える物陰に姿を隠した。
アーシュが教室を出てからの行動を……アーシュが会いに行くであろう「あの人」の姿を確かめなければ、と思った。
先ほど握ったアーシュの手は――まるで氷のように冷たく、体温を感じさせなかった。
冬の寒い時期ならば、そんな手をしていてもおかしくはないかもしれない。だけど、今は春だ。どんな冷え症の人間だって、あんなに手が冷たくなる筈がない。
ミーアの言う通り、明らかにアーシュは異常だ。
外見や中身と裏腹の、存在感の薄さも、あの狂気じみた激しい恋の執着も。
確かめなければならない。
アーシュが言う「あの人」の正体を。
「あの人」が、アーシュにしていることを。
だけど、どれほどその場で待っても、アーシュが教室を出てくる様子は無かった。
オレンジ色の夕日が窓から入り込み、空が段々暗くなっているのが分かる。
……そろそろ私も、寮に帰らなければならない時間だ。
意を決して、もう一度教室に入ってみることにした。
「……アーシュ。ごめん。1個聞き忘れてたことが……」
一瞬、先ほどのように一切気配がなくなったのかと思った。
だけど、違った。
「……アーシュ?」
教室の中にアーシュは、いなかった。
あちこちを見渡していくら探しても、どこにもその姿は見えなかった。
教室の扉からは、誰も出てきていないのに。
ここは3階で、おまけに窓もしっかり施錠されているのに。
「なるほど……確かにこれは、異常だ」
「……レイ様。その、昨日はアーシュの様子を見に行ってくれましたか?」
翌日の昼休み。
昨日同様に人払いをしたいつもの部屋で、ミーアはどこか遠慮がちに尋ねてきた。
「ああ。……ミーアの言う通り、確かに異常だったよ」
「っやっぱり、レイ様でもそう思われたんですね……! 私の勘違いではなく……っ」
ミーアの顔がくしゃりと泣きそうに歪んだ。
ずっと一人でこの奇妙な事態を胸の内に貯め込んで、不安だったのだろう。
ミーアは、震える手を握りしめながら、縋るように私を見上げた。
「別に私は、アーシュが好きな人が出来たことも、婚約破棄云々のこともどうでもいいんです。……それでアーシュが幸せになって……ちゃんと普通に結婚して、幸せになってくれるのなら……だけど、私にはどうしても今のアーシュの姿が何か悪いものに憑りつかれているかのようにしか見えなくて……このまま、アーシュが得体の知れないものに連れて行かれて、いつの間にかいなくなってしまうんじゃないかと、心配で仕方ないんです……!」
「うん。私もそう思う。あんなのは、普通ではありえない。……その……とても言いづらいんだけど。ミーア」
「はい……何でしょうか」
「私はね、普段一度会って話した人の名前は滅多に忘れない。大抵はちゃんとファミリーネームまで全部しっかり覚えているんだ。貴族として、そういう風に育てられたからね。――それなのに、今私は、ミーアの口から名前が出るまで、アーシュの名前を思い出すことが出来なかったんだ。それどころか、名前を聞いてもなお、ファミリーネームが出てこない。……彼の姿形の記憶ですら、非常に曖昧なんだ。昨日の放課後に、会って話したばかりだと言うのに」
認識の中から、そして記憶の中からさえも、消えていく「アーシュ・セドウィグ」という存在。
姿を確かめることすら出来なかった、アーシュの想い人。
一体、アーシュの身には何が起っているというのだろうか。