第十話:誰も、寝てはならぬ。(その7)
あたりは明るく、世界はまだ、土曜日の朝11時をすこし過ぎたあたりだった。
いつの間にか、樫山家のせまいせまい庭にたどり着いていた杏奈ジアと杏奈ニアは、いまだ自分たちのまわりを飛びまわる光の欠けらと、割り切られ細切れになった素数の欠けらたちを、パタパタパタと両手で払うと、彼女たちの先導者、ここまで彼らを運び連れて来た女性、柳瀬ヒトミの姿を探した。
が、しかし、そこに彼女はおらず、彼女がどこに行ったのかも、ふたりには見当が付かなかった。
すくなくとも、あの壁の中で、彼女たちの前を歩いていたのは確かだし、実際、杏奈ニアの右手には、彼女がつかんだ手の跡が残されていたにも関わらず、である。であるがここで、
ぷうぃー、てゅぃ、てゅぃ、てゅぃ。
ぷうぃー、てゅぃ、てゅぃ、てゅぃ。
ぷうぅうぃいぃぃー。
と、杏奈ジアの背後から、奇妙な歌が聞こえた。ジアとニアの杏奈姉妹は、顔を見合わせそちらをふり向くと、そこには、山岸の家の祖母の家の青いインコがいた。彼は、彼女たちに何かを伝える、あるいは、近くにいる誰かを呼んでいるかのようだった。
*
『ほそい、アルミフレームの眼鏡をかけたおばあさんが笑っていた。するすると伸びたその鼻を、やたらとながいその顎の先にくっつけそうないきおいで。』
その日の朝、山岸まひろが最初に読んだお話は、そんな風に始まっていた。
『昼間のホームにひと影はまばらで、日差しは強く、彼女も、彼女の話し相手も、白い、ちいさな、日傘のようなものを差していた。』
それは、読み出せば20分と掛からない短編小説で、ひとつ屋根の下に暮らす、二人の女性が主役の、一風変わった、ラブコメディだった。
彼女たちのひとりは塾の講師で、もうひとりは、出版社勤めの編集者だった。
塾の講師は、恋多き女性で、出版社勤めの方は、毎晩彼女の愚痴に付き合っては、「きっと、いい男が見付かるわよ」と、彼女を慰める役目を担っており、そうして彼女は、彼女のことを、こころの底から愛していた。
くすくすくすッ。
そんな彼女たちのやり取りとすれ違いを読みながら、山岸まひろはわらった。
「そんなに面白いのかい?」山岸の家の祖母は訊いた。
「うん」反射的にまひろは応え、「あ、いや」と言って、すこし考えた。「面白いのは面白いけど」ただ、面白いだけのお話のようには想えなかった。
ページをめくり、次のお話を読んだ。彼女たちの、友人のお話だった。
その友人は男性で、三人の子持ち。奥さんの尻に敷かれ、わんぱく盛りの子どもたちにふり回されては怒鳴ってばかりいるが、それでも彼は、そんな彼の子どもたちのことも、そうしてもちろん奥さんのことも、こころの底から愛していた。
くすくすくすくすッ。
奥さんの誕生日ケーキを作ろうとした彼がクリームまみれになるところで、山岸まひろはわらった。
「だいぶ気に入ったようだね」ふたたび、山岸の家の祖母が訊いた。
「うん」ふたたび彼女は応えた。ページをめくり、「こんなにおかしいのに、なんだか、ほんとにいる人たちみたいなんだ」と言ってわらった。
次のお話は、おかしな双子の兄弟のお話だった。それからその次は、塾講師の幼馴染みのお話。出版社勤務の女性にあわい恋心を抱く小説家や、坂の上のパン屋の店員、ラジオの前から動かない不細工なネコとか、色々、短い、10いくつかのお話が紡がれ、そうして最後に、ひとつ屋根の下に暮らす、二人の女性にお話は戻ってくる。
そうしてそれは、やはり、最初のお話とほとんど変わらないお話で、結局のところ、彼女たちの恋と友情の行方といったようなものは、まったく語られずに終わっていた。
が、しかし、それでも山岸まひろには、彼女たちがきっと幸せになったであろうことは分かっていた。
「これを書いたひとは」誰に聞かせるでもなく、彼女は言った。「これを書いたひとは、きっとみんなに、幸せになって欲しかったんだね」
「そうかい」山岸の家の祖母は言った。やさしい声で、「まひろ、こっちを見てごらん。あたしの方をさ」
彼女の頭の上には、まるで部屋中の光をすっかり集めたような、くるくるくるとした黄色のかたまりが出来ていた。そのため、ほかのものはすべて、暗闇に落ち込んでいるように見えたが。
「あんたはかわいいから」山岸の家の祖母は言った。今度はほほ笑みながら、「ひとりにするのは、ずうっと、心配だったんだけどね」
祖母のこの“かわいいから”の部分に、まひろのこころは、今度は痛むというよりは、なにか面映ゆい感じを受けていた。祖母は続けた。
「たしかに」と、まひろを心から愛おしむように。「あんたが好きになるひと、あんたの恋人になるひとってのにも、死ぬ前にいちどは、いちどくらいは、会っておきたいかもねえ」
*
あたりはほの暗く、机の上の目覚ましは、土曜日の朝11時をいくつか過ぎたあたりであった。
猫はいなかったが、壁の色と窓の位置、それに床に置かれた荷物から、ここが昔の自分の寝室、夫婦の寝室だったことは分かった。
一緒に壁を抜けたはずの双子の姉妹がいないことに気付くと柳瀬ヒトミは、寝ていたベッドから足を下ろし、ゆっくりと扉の方へと向かった。
「夫婦の寝室だったから?」苦笑しながらヒトミは言った。「ニアちゃんたちを入れたくなかったの? 私?」
が、直後、彼女はすこしこの憶測を変えた。机の上に置かれた、青い表紙の日記帳に、目が留まったからである。
前回、この日記を、そのいくつかのページを読んだとき彼女は、杏奈姉妹に会う前だったので、あまり、ピンと来てはいなかったのだが、多分に、この日記の作者――それはつまり、件の「壁」の製作者ということだが――彼女はきっと、彼女ら杏奈姉妹にも、この日記は、見られたくない類のものなのだろう。何故ならそれを読むことは、作者の過去や、彼女の恋人への気持ちを知られるのと同じく、彼女が、彼女ら杏奈姉妹をどのように見、どのように想っているのかをも分かる、相当に恥ずかしいものであるから。
そう。
この青い表紙の日記帳には、次のような事柄が、いくつか書かれていたから。
(続く)




