第十話:誰も、寝てはならぬ。(その6)
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どこまで来たのか、どうやって来たのか、その日の山岸まひろには、まったく見当も付かなかったし、また周囲の風景は、これまで彼女が見たこともない場所のように想えた。そこが、これと言って変わったところのない、住宅地であったにも関わらず。
が、しかし、朝靄と数時間前に経験した (あるいは犯した)罪のせいだろうか、まるでその場所は、現実感のない映画のセットや舞台の書き割り、または、筆力の怪しい小説家が描いた、暗い、朝の風景――といった様子であった。
そうして、そんな蜃気楼のような場所において、唯一の例外、最低限の現実感を留めていたのは、不意に現れた小高い丘、その上に建つ花盛りの祖母の家だった。
「さあ、丘をお登りください」と誰かがささやいた。彼女の耳元で。
「私ひとりで?」まひろは訊き返した。が、当然、ここには、彼女しかいない。
「うえで、奥さまがお待ちです」声は応えた。それから、「どんどんとお登りください」と言って、くすりと笑った。
わらいの意味は分からなかったが、山岸まひろは、丘の入り口まで進み、ちらとうしろをふり返った。そうして、
「なんだ、やはり誰もいないじゃないか」
と想うと同時に彼女は、上へと登る石段に足をかけ、と同時に、そこはすでに、花盛りの、祖母の家の居間だった。
「どうしたんだい? こんなはやくに」山岸の家の祖母は訊いた。揺り椅子にすわり、身体をゆすりながら、「なにかあったのかい?」
居間の隅には、赤い顔の男が、丸い四脚のスツールに座ってなにか本のようなものを読んでいた。
まひろは汗だくで、心臓もおかしく、飛び出して来た富士夫の家から、五百マイルも一千光年も離れたような気分になっていた。
山岸の家の祖母は椅子をゆするのをやめると、まひろの肩に手を伸ばし、
「どうしたんだい?」そう繰り返した。「なにかあったのかい?」
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原初の光が爆発し、したかと想ったら巨大な虚無が走り過ぎて行った。どっしりとした、四足歩行で。
不可逆時間は逆行していたが、これはもちろん架空の宇宙で、物質は膨張と伸縮をくり返しながら、拡散と凝縮をも、同時にくり返していた。
空間いっぱいの素数が宙から降っては、パラパラパラ。と三人の頭上へと落ちた。
杏奈姉妹と柳瀬ヒトミは手をつなぎ、ヒトミの先導で「壁」のなかを進んでいた。
が、ヒトミのすがたは、老いたり若返ったり、縦になったり横になったりをくり返しつつ、色や服装や背景色をも変化させていた。
彼女の肩には、山岸の家の祖母の家の青いカナリアが、そんな変化は気にしないとでも言いたげに、歌も歌わずとまっていた。
すると、また、それより少しうしろでは、殿を務める杏奈ジアが、浅黒い肌の少年や長身白髪の老人、あるいは、粗服をまとった痩せぎすの少女になったり重なったりをくり返しながら、どうにかこうにか、いま現在の姿を保とうとしていた。
「お母さま!」
と、彼女たちの間をすすむ杏奈ニアは叫んだ。が、時間と空間と位相幾何学と純粋物理学が、行ったり来たり飛び跳ねたり沈み込んだりをくり返しているこの場所では、彼女の声はプランク定数ほどもなく、その叫びが柳瀬ヒトミに届くハズもなかった――が、まあ、代わりに、『ハムレット』を書き上げたばかりの無限無数の猿たちが、彼女の横をとおり過ぎては行ったのだが。二匹一組の、軍隊式行進で。
「ジア?!」
ふたたび杏奈ニアは叫んだ。今度は、後ろにいるはずの姉に向かって、
「これ! ホントに! 抜けられるの?!」
が、しかしもちろん。自身の断片的な過去や未来や並行宇宙に、行っては戻りをくり返している今のジアにとって、これに応えられる余裕などはなく、ただただ、つないだニアの手を、ギュッと握って返すだけだった。
「ったく」杏奈ニアはつぶやいた。問うのを諦め、ジアの手を、こちらも強く、握り返しながら、「ここまでとは聞いてないわよ、山岸」
が、しかし、このような空間にあって、杏奈ニアのすがたは、いまの彼女のすがたのまま、大きくも小さくも、老いたり若返ったりもせず、ただただ、服や髪型やメイクを変えたり消したりをくり返しているだけではあったが。そうして、
ぷうぃー、てゅぃ
ぷうぃー、てゅぃ
ぷうぃー、てゅぃ
と、山岸の家の祖母の家のカナリアは、こちらを向いて、なにやら歌を歌おうとしていたのだが、すると今度は、
「世界の真実をすべて教えろ!」
と叫ぶ宇宙海賊が、彼女たちの横を、無限に吐き出される穿孔テープの波に押し流されながら、事象の地平線へと消えて行くのが見え、
「ニアちゃん! ジアちゃん!」
と、柳瀬ヒトミが叫んだ。いまは幼い少女のすがたで、
「そろそろよ!」
と、果てしのない数の素数が、果てしのない数のボーア軌道とクライン体とケンカしながら、果てしのないため息と咳払いの中へと消えて行くのが見え、そうして果てしのない終わりの果てに、
「まわりで! おかしなものが見えたり! 聞こえたりしても! 気にしちゃダメよ!」
と続けてヒトミは叫んだが、ニアもジアも「なにをいまさら」と想うだけであり、そんな彼女たちのよこでは、まっ黒な白鳥が、巨大なプチシュークリームを追いかけながら飛び去って行った。ふたたび、ヒトミが叫んだ。
「抜けるわよ!」壁のむこうが見えて来た。「しっかりとつかまって!!」
ふたたび、原初の光のようなものが爆発し――、
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「なんだい、黙ってたら分からないだろ」山岸の家の祖母は言った。「当てろとでも言うつもりかい? あたしに」それから笑って、「なんでもかんでも知ってると想ったら、大間違いだよ」
山岸の家の祖母の家で、山岸の家の祖母の近くに座り、山岸の家の祖母の孫である山岸まひろの汗や心臓は、落ち着きを取り戻していた。彼女の心は、いまだ、どこか遠くをさまよっているようではあったが。
「どうなんだい?」山岸の家の祖母はくり返した。「なんでここに来たのか、自分からは言わないつもりかい?」
赤い顔の男が、無言で祖母に挨拶し、静かに部屋を出て行った。彼が読んでいたのは、一冊の文庫本、ある女性作家の短編集だった。
ここにまひろが来た理由について、山岸の家の祖母は知らなかったし、知るはずもなかったし、それに、そんな彼女のこまったような顔にまひろは、ふと、やはり知られたくない。と、そんな風にも想っていた。
「実は、家を出たいって想ってるんだ」
彼女は嘘を吐いた。ほんの一瞬、山岸の家の祖母の顔に、驚きの表情が見えた。
「今度の職場にはすこし遠いし、いつまでも実家暮らしってわけにもいかないし、一度はひとり暮らしをしてみたいって想っていたんだよね」
これらは、別に嘘ではなかったが、話すまいと決めた事柄のために、まるで全てが嘘を吐いているように聞こえた。まひろは続けた。
「これから、恋人だって出来るかも知れないし、そんな時に今の家だと――」
「そうだねえ」山岸の家の祖母は言った。まひろの嘘をさえぎるように、「あんたはかわいいから、ひとりにするのは、ちょっと心配だけどねえ」
祖母のこの“かわいいから”に、まひろのこころはチクリと痛んだが、その隙間にはいり込むように、「正直に話してしまいなさい」と、彼女の耳元でささやく声が聞こえた。聞こえたのだが――、
「そうだねえ」と、山岸の家の祖母は続けた。今度は、そのささやきを咎め切るかのように、「でも、あんたが好きになるひとってのにも、あんたの恋人になるひとってのにも、死ぬ前にいちど、いちどでいいから、会っておきたいかもねえ」
それから彼女は、まひろの顔から視線をそらし、ふっと、赤い顔の男が置いて行った文庫本の方へと目をやった。たしか、その短編集のカバーには、著者本人がどうにかして他のモノに差し替えたいと願っている、彼女の、若いころの、写真が載っているはずだった。
(続く)




