第一話:桟橋をわたって(その7.5)
「ちがうよ。ハトは3組いたんだよ、つがいでね」
エスカレーターの手すりにつかまりながら、山岸の家の祖母は言った。「みーんな、仲が良かったんだよ。あたしと、あんたのおじいさんみたいにね」
昼間の駅のホームにひと影はまばらで、日差しは強く、エスカレーターをのぼりきるなり山岸の家の祖母は、白い、ちいさな、日傘のようなものをさした。
それから彼女は、きょろきょろとあたりを見まわすと、突然、
「あらぁ、不破さん」
と、なんだか舞台じみた声でおどろいて見せた。
きっと、知り合いの男性なのだろうが、こちらもこちらで、何故だか同じく、白い、ちいさな、日傘のようなものをさしている。
「これからどちらへ?」
とふたたび、芝居がかった声と様子で山岸の家の祖母は言った。
すると男性――彼はこの時、ちょうど自動販売機の前で飲み物をふたつ買っているところだったのだが――は、その赤い肌とくろいあごひげで、
「ちょいと、西新宿まで」と、祖母以上の大根役者ぶりで応えた。「山岸さんこそ、今日はどちらへ?」
「あたしはここまでよ」祖母は応えた。「きょうは、孫を見送りに来ただけ」
「そちらの?」男性も応えた。「なるほど、お若いころのサキ子さんにそっくりですな」
それから男性は、ふたりのもとへと近付くと、
「不破です。以後、お見知りおきを」と大時代的な声と仕草でまひろに会釈し、そうして、「どんなかんじですか?」と山岸の祖母に訊ねた。まひろには絶対聞こえないような、小声で。
「運命じゃないかねえ」祖母は応えた。くっくっく。とすこしわらいながら、「すくなくとも、この子にとってはね。そっちは?」
「とにかくよくしゃべる女ですよ」男性は応えた。心底つかれたとでもいうように、「愚にもつかないことを、ペラペラペラペラペラペラペラペラ」
右手に持った缶コーヒーを山岸の家の祖母に見せながら、
「いまやっと、こいつを買うって逃げ出して来たところなんです」そうして、左手に持ったペットボトルも見せながら、「そしたらあの女、この私にりんごジュースなんか買わせやがった」
「あーっはっはっは」
山岸の家の祖母がわらった。ひときわ大きく、くっ付けていた鼻と顎を、おおきくおおきく、離しながら、「それはまあ、大変だったわねえ」
「まったく、これだから物書きって連中は」
男性は続けた。あかい色した顔のかたちを、微妙にななめに崩しながら、
「いったい何を欲しているのか、
いったい何を望んでいるのか、
誰かに話してみなければ、
何かに書いてみなければ、
皆目見当もつかないと来てやがる。」
「ああ、ちょいと不破さん」山岸の家の祖母は言った。おどろいた様子で、日傘で男性の顔を隠しながら、まひろからちょっと離れながら、「で? けっきょくどう想うのさ」
「あ、これは失礼」男性は応えた。日傘の中で顔を戻しながら、「私自身は、運命ってやつを信じていませんがね」まひろの方をチラと見て、「サキ子さんがそう言うのなら、そうかも知れませんね」
そうしてそれから男性は、もとに戻した赤い顔と黒いアゴヒゲで、こうささやいた。
「あのね、まひろさん」きっと誰にも、絶対に聞こえない声で、「今度はチャンスを、逃さないでくださいよ」
*
パァーンッ。
どこかでなにかの、閉じるような開くような、そんな音が聞こえた。
*
昼間の駅のホームにひと影はまばらで、ささやく男性の向こう側、青と緑のベンチのうえに、ひとりの女性が座っていた。
うすいレースの日傘を差して、汗となみだで化粧はくずれ、それでも誰かを待つように。
「引きとめておいたのは私ですからね」悪魔は続けてささやいたが、「まったく、手間のか――」
彼が、それを言い終わるよりはやく、
「ヤスコ先生!」
と、山岸まひろは叫んでいた。そうして、
「まひろくん?」
と、樫山ヤスコはふり向いていた。真夏のあつさに、やられた様子で、
「すっごく、待ったのよ?」
(続く)




