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第九話:人形/あるいは東京市営食肉処理場第五号(その7)

     *


「私にいっぱい、水を汲んで来てはくれませんかね?」


 この申し出に彼女は、ちかくの井戸から、ブリキのバケツ一杯分の水を運び、赤い顔の馬に与えた。

すると馬は大層よろこび、自分の名前は「※★ф$$▲☆¶$$」であると言った。


 が、これは、我々人間の口ではとうてい発音出来るものではなかったので、仕方なく彼は、これを人間風に翻訳すると、これから自分のことは「不破」と呼んで欲しい。と彼女に伝えた。


 馬は、続けた。


「それでは奥さま」こんどは形を、赤い顔の黒い馬から、赤い顔の黒い犬に変えながら、「これにて契約は成立です。ご遠慮なく、望みをお聞かせ下さい」


「望み?」女は訊いた。


「あなたが愛したいものを」赤い顔の黒い犬は応えた。「あなたの、その、人生に」


 もちろん、この言葉を、女は信じなかった。が、しかし、それでも、彼女の胸の内ポケットには、いまでもずっと、あの色あせた写真は入っていた。女は望んだ。それなら、


「それならいますぐ、あの子たちをここに返しておくれ、いますぐ」


 すると、赤い顔の黒い犬は、すぐに彼女の望みを叶えた。彼女の息子たちがもどって来た。ふたたび女は、なみだを流した。帰って来た息子たちをつよく抱き締めた。が、しかし、


「やめてくれ、母さん」長男が言った。彼の左脚はなくなっていた。


「なんてことをしてくれたんだ」次男が言った。彼の衣服はずぶ濡れていた。


「いますぐ、あちらに戻しておくれ」三男が言った。彼の背中は焼けただれ、母親の抱擁を受け止めることが出来なかった。「いまの僕らに、ここは耐えられない」


 女は気付いた。息子たちの顔も声も瞳も、もう、こちらのものではないということに。


「もどしてやっとくれ!」彼女は叫んだ。「いますぐ、みんなを、あちらにもどしてやっとくれ、いますぐ!」


 赤い顔の黒い犬――いや、いまでは彼は、赤い顔のちいさなカラスになっていたが――は訊いた――「よろしいのですか?」


「よろしいのですか? 奥さま?」彼女にしか聞こえない声で、「だけれど、あなたのお望みは――」


 しかし彼女は、直ぐに言葉をさえぎった。


「いいから!」いますぐ息子たちをあちらにもどしてやっとくれ、「こんな、こんなひどいこと……」彼らの苦しみは、国からも世界からも、その歴史からも見棄てられた彼らの苦しみは、彼女の想像をはるかに超えていた。


「承知いたしました」赤い顔のちいさなカラスは応えた。彼女はまた、ひとりになった。


「さあ、おつぎは?」カラスが訊いた。女は答えた。「いますぐあたしを、殺しておくれ、いますぐ」


「殺す?」カラスは訊いた。「なんでそんなバカなことを?」女は答えた。「あたしが、息子たちの所へ行くからだよ」カラスは答えた。「でしたら、それはマズいかと」女は叫んだ。「なんでなんだい!」カラスの頭を捕まえながら、「死ねば向こうで! 彼らに会えるだろ!」カラスは答えた。苦しそうに、「わ、私が、」そうして今度は、ちいさなヘビへと変わりながら、「私が奥さまを殺しますと、」彼女の手からぬるりと這い出た。「奥さまの魂は、地獄行きとなってしまいます」


「それがどうしたんだい!」彼女は叫んだ。ふたたび、「地獄だろうがなんだろうが、あの子たちに会えるのなら、あたしは怖くないよ」


「い、いえ、ですから、」ヘビは応えた。「これは、大変めずらしいことなのですが、」彼の尻尾を踏もうとする女から、必死で逃げ回りながら、「どうやら、あなたの御子息はみな、天国行きのようなのです」


 彼らの世界では地獄は九層、天国は十層、その間にもはるか大きな台形の山があり、地獄に堕ちた者が、天国に住む者に会いに行くのは、まずは不可能に近い。


「で、ですから奥さま」ヘビは続けた。「もちろん自殺も、ご法度ですぞ」尻尾をつかまれ、ぶら下げられた格好で、「それこそ永久に、御子息たちに会えなくなります」


     *


「すみません、おばあさん」とつぜん、杏奈ジアが訊いた。花盛りの家のリビングで。地球人類の生殖能力について、その可能年齢その他について、自分はそこまで詳しくないが、「それでは、山岸さんのご両親は?」――やはり、計算が合わないような気がする。「おばあさまの実子? ではない?」


     *


 あるとき女は、ある蕎麦屋で、ある老夫婦と相席になった。四人掛けのテーブル席で、彼女は赤い顔の男と一緒だったが、周囲からはひとりで座っているように見えていた。


 女の前には夫人が座り、男の前には夫が座った。夫人は、小脇に何か大きなものを抱えていた。それは、横抱きにされた彼女の息子――いや、息子代わりの、大きな人形だった。


 人形は、背広を着て、ネクタイを締め、洒落たかたちの中折れ帽を被っていた。


 夫はビールとつまみ、それに三人分の食事を注文していた。


 届いた食事を夫人は、先ずは息子の口もとへ、それから自分の口へと運んでいた。


 そのため彼らの食事というのは、まったくもって遅々として進まず、赤い顔の男は、興味深げにその様子を観察していたが、女の目とこころは、そのやり場にこまっていた。


「奥さま」女は言いたかった。「実は、あたしも――」


 しかしそれは、決してしてはならないことだった。そう、女には分かっていた。


 そう。彼はきっと、この夫婦のひとり息子であったのだろう。そうしてきっと、彼も先の戦争で死に、国からも世界からも、その歴史からも、見棄てられたのであろう、静かに。そうしてきっと、この夫人はこころを病み、乱し、夫は彼女に、この人形を与えたのだろう。


「これはもう、正気にはもどらんでしょうな」赤い顔の男は言った。うれしそうに。女にだけ聞こえる声で、「子どもを殺したその罪に、こいつのこころは耐えれんらしい」


「殺した?」女は訊き返した。男にだけ聞こえる声で、「彼女が?」


「殺したも同然でしょう」赤い顔の男は言った。「いくさを始めて止められず、死ぬと分かって兵にも出した」


 パサ。


 と、人形の帽子が床に落ちた。まるい頭が現われ、夫がそれを拾い上げた。女と目が合い、一瞬夫は、怪訝そうな顔をしたのだが、それをすぐに元にもどすと、女に軽く会釈して、自分の食事へと戻って行った。「どうも息子が失礼を」とでも言いたげな表情で。


 ガタ。


 と、突然おんなは立ち上がった。食事はまだ、少し残っていたが、それでも。老夫婦に、こちらも軽く会釈して。


 会計を済ませ、女は店を出て行った。夫は会釈を返してくれたが、夫人の方は、彼女は息子にかまけてて、きっと女がいたことも、そんな周囲の状況も、きっとまったく、関心外の、ことだったのだろう。


 いまだ街灯のもどらぬ夜道を女は進んだ。急ぎ足で、まるでそこから逃げ出すように。なのでそのためこの歌は、彼女の幻聴であるに違いないのだが、私はそれを、ここに書き留めておかねばならないだろう。


 そう。歩き続ける彼女の耳には、次のような子守歌が、癒し歌が? 聞こえていた。蕎麦屋の夫人のあの声に、とてもよく似たその歌声で。


     *


 『ぼくをころしたおかあさん。

  ぼくを食べたのおとうさん。

  ねえねえこれがぼくのほね。

  きれいな絹に包んでくれた、

  ねずの木陰に隠して埋めた、

  ぼくのかわいいマルレーン。

  ぼくはきれいなとりになり、

  とおいおそらに飛んで行く。』


     *


 彼女が足を止めたとき、そこはちいさな丘の上だった。空には満天の星が降り、彼女を責め立て瞬いていた。地には無数の虫の音が、彼女をわらい、うたってた。


「どうされました? 奥さま」赤い顔の男が訊いた。「こんな子守歌、聴くだけ無駄でしょう」


 彼女の耳は、未だこの幻聴から逃げ出せない様子であった。


「あの方、あのままどうなるの?」女は訊いた。


「さあ」赤い顔の男は応えた。「生きて行くのでしょうな、あのまま」肩をすくめ、「あなたと同じように」という言葉は飲み込んだ。


「彼女に救いは?」女は訊いた。続けて。


「それを私に訊きますか?」それに男は答えなかった。代わりに、「あれも結局」と、出来るだけやさしい声となるよう注意して、「あれも結局、運命の裁き」そう言いながらうそぶいた。「致し方ありませんな、こればっかりは」


「あれが裁き?」女は笑った。つぶやくように、「誰の裁きよ」


 満天の星が彼女を責め立て、夏の夜の虫たちが彼女を嘲笑った、一斉に。


 ケタケタケタケタ、

 ケタケタケタケタ、

 ケタケタケタケタ、

 ケタケタケタケタ、


 そうしてそれから、天にましますあのクソ野郎は、こちらを見下ろ――いや、あいつはひとに、関心すら寄せていない。


「不破さん」女は言った。彼女の悪魔に向かって、「あなた、いのちは創れるの?」



(続く)

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