第九話:人形/あるいは東京市営食肉処理場第五号(その2.5)
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それから、平和と言っていい優しさのなかでヤスコは目を覚ました。いや、まだすこし夢のなかにいた。まひろは眠っていたから。
やわらかな髪の頭が、ヤスコの心臓の上に載せられていた。眠っているまひろのまぶたが、ふるふるっと震えていた。
どんな夢を見ているのだろう? とヤスコは想い、ふと、足もとを見ると、いつ来たのだろうか、飼い猫のフェンチャーチが、彼女たちにすり寄るため、ソファに飛び乗ろうとしているところだった。
ヤスコは、彼女に向かって人差し指を立てると、静かに、こちらに来るように、と伝えた。まひろを起こさないよう静かに、と。
猫は、主人の指示にしたがい、彼女のところまでくると、彼女の上で幸せそうに眠るまひろの寝顔を鼻で笑ってから、ソファの根元にうずくまった。
その不愛想な頭を、ヤスコはやさしく、撫でてやった。
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「ねえ、そろそろ行きませんか?」
と、ちょうどそれと同じころ、道端のスーツケースに腰を掛けた格好でニシナは言った。柳瀬ヒトミに向かって、
「約束は昼過ぎだったでしょ? そろそろ行かないと」
しかし、この言葉に柳瀬ヒトミは反応しなかった。彼女は、自分の考えの中に入り込んでいた。
彼女はいま、日傘を差し、道の反対側――そこへ渡れば、問題の樫山家へと通じる路地が現われる場所――を見つめているところだった。その表情は、かけられたサングラスのため、はっきりとはしなかったが。
「ねー」
と、もう一度ニシナが言いかけたとき、その言葉をサラが止めた。ヒトミの横に立ちながら、
「ヒトミさん?」彼女は続けた。しずかに、彼女の肩に手をかけながら、「そろそろ――」
すると、ここでやっと柳瀬ヒトミは、まるで夢から醒めたように、
「え? あ、ああ、そうね」とサラの方をふり返りながら応えた。「ヤスコに会わないとね」
本来の目的は、元夫の本とノートだったが、それでも、
「じゃあ、そろそろ行きますか」と言って彼女は続けた。前を向き、右手の腕時計を確認し、「約束は、お昼過ぎだったものね」
そうしてニシナに、立ち上がるよううながしながら、
一歩、二歩、三歩……。
と、目の前の道を――そこを渡れば、問題の樫山家へと通じる路地が現われる道を――、ゆっくりと、渡り始めた。そうして更に、
一歩、二歩、三歩……。
と、ちょうど道をわたり終えたとき、彼女の前に現れたのは、スーツケースを持ったかたちのニシナだった。
「え?」ニシナは訊いた。彼女の方をふり返り、おどろいた顔で、「どうしたんスか? ヒトミさん」
(続く)




