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第九話:人形/あるいは東京市営食肉処理場第五号(その2)

     *


「すこし、この音を、聞いてもらえますか?」


     *


 次にまひろが目を覚ましたとき、時計の針は、10時をすこし回ったところだった。


 身体には、おおきな青いタオルケットがかけられ、先ほどジアがいた場所には、代わりにヤスコがすわって本を読んでいた。


 杏奈姉妹について訊くと、急な用事を想い出したとかで、すでに帰ったあとだった。


 詢吾についてたずねると、フェンチャーチと一緒に自分の部屋へ向かい、まだまだ起きて来る気配はないということだった。


「祖母と」と問い掛けて、まだ頭がはっきりしないのだろう、「お母さまに」とヤスコに言った。タオルケットにくるまったまま、すこし、くぐもった声で、「お母さまに、お会いしました」


「そう?」ヤスコは言った。本を読む手が止まり、「なにか、」まひろにも、その緊張が伝わった。「なにか、失礼なこととか言われてない?」


「僕はなにも」まひろは言った。彼女の方に頭を寄せて、「よろこんで頂けたくらいで」


「よろこぶ?」彼女がこちらを向いた。昨夜の心配が、愛しさに変わっていくのが分かった。「僕が、ヤスコさんの、」すこし言葉をためらって、「恋人……と、」すこし卑怯だなとは想いつつ、「そのことを、お母さまは」それでもいま、ここにふたりだけでいることの誘惑には勝てなかった、「“うれしい”と」


 それから、そう伝えるとまひろは、ソファの上に身を起こし、先ずは彼女の脚に、それから彼女の手に触れた。先ほどのニアに軽い、嫉妬のようなものをおぼえながら、続けて彼女の首に触れ、そうして、先ほどジアから聞かされた、奇妙な音を想い出しそうになった。が、しかし、そこで彼女は、まるで軽いつむじ風に巻き込まれるようにそれを忘れると、ヤスコの肩の匂いを、ゆっくりと、吸い込んだ。しろい、透明な、彼女の母親を想い起こさせるような、そんなにおいだった。


 だめよ、まひろくん。と彼女は言った。でもそれが、彼女の本心ではないことは分かっていた。片手をくびに残したまま、もう一方の手で、彼女の頬に、目じりに、それから、その薄いくちびるに触れた。きっと、邪魔して来るものは、もう誰もいないだろう。


『きっと、邪魔して来るものは、もう、誰も、はいっては来られないだろう。』――彼女とちがう、まひろが言った。


 ヤスコさん。とまひろは言った。自分の心臓と、彼女の心臓が、おなじリズムで高鳴って行くのが分かった――やっと、そうして、それから、きっと。


 やっと、それから、そうして、きっと、やっとふたりは、はじめての口づけを交わした。邪魔して来るものは、もう、誰も、いなかった。


『邪魔して来るものは、もう、だれも、いることは出来ないだろう。』


 そこには、ふたりだけだった。


 もう、止めることは出来なかった。


 はじめてのキスは、すぐに二回目のキスとなり、三回目のキスとなった。


 やさしく触れ合うだけだった両手は、互いが互いを、つよく求め、つかみ、抱きしめ合っていた。


 頬と頬とが寄せられ、からだとからだが、胸と胸とが、腕と腕、足と足とが、重ねられ、交わされあった。


『そう。ここには、ふたりだけ。』――まひろとちがう、まひろが言った。


 そうして、それから、それからふたりは、ふたりの心が充たされるまで、呼吸がおさまり静かになるまで、そっと、静かに、それを続けた。


     *


「ねー、なんで私も来ないといけないのよ、こんのクッソ暑いのに」


 と、ちょうどそれと同じころ、杏奈ニアは叫んでいた。日傘を差し、大きな黄色い太陽と、彼女の姉、それにリズムの定まらない吹奏楽部の演奏に、こころの底から、腹を立てつつ、


「なによこの、オドロオドロした『威風堂々』は」と。


 そう。


 その演奏はまるで、深紅のスカーフに頭を包まれたクラリネットが、蛇行し輪を描くトロンボーンに引き摺られ、明け方わき腹を蹴られたティンパニの音に、右へ左へふり回されつつ、残った楽団員たちもろとも燃えさかるキャンプファイヤーへ飛び込まんとするが如きものであり、先ほどニアも「オドロオドロ」と言ったとおり、それは例えば、カリブあたりの闇夜であれば、カトリックと異教徒の婚前式、それらをつなぐハチドリの羽音、灰に包まれた紅色の蜘蛛、雌雄同体となった司祭と祭祀長、そんなもののテーマソングとして奏でられてもおかしくない音楽であった。が、しかし、


「問題は、彼らの方にはないよ」


 と今度は、杏奈ニアの先、10mほどの所で、杏奈ジアが言った――「ここは、カリブでもなければ、闇夜でもないだろう」と。


「お前の言う「オドロオドロ」は、複数の音波や電磁波、それらが一定のパターンで輻輳しつつループして、元の音楽に干渉、変容させていて」そうしてそれが、この真っ昼間の住宅地に届き響いているせいだろうが、「ひとが意識し、あるいは意識せずに、出せる音じゃあないな」と。


 そうして、それから彼女は歩みを止めると、手にしたスマートフォンを、縦に置いたり横に置いたり、あるいは頭上にもち上げて、そのままそこで回転したりしつつ、


 ジジ、ジジジジジ、ジジ。とか、


 ビ、ビ、ビ、バジ、バジ。とか、


 ジー、ッジ、ジー、ッジ。とか、


 スマートフォンから出て来るソニック音を、注意深く聴いていた。いたのだが、


「なに? 誰かがワザと歪めてるってこと?」と問うニアが、彼女の横に立つのと同時に、


 ジーッ、ジッ、ジーッ、ジッ。

 ジーッ、ジッ、ジーーーーッ。


 と、やっとお目当ての周波数を拾えたのだろう彼女は、ちょうどバレエのルティレのような格好でそこに固まると、


「多分、そういうことなんだろうが」と言って、目の前の小さな丘を見上げた。「問題は、誰が、なんのために、やっているかってところだな」


 丘の上には、小さな、花盛りの家が見えていた。



(続く)

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