第八話:砂時計(その7.75)
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お茶の時間にヤスコがそこに着いたとき、山岸の家の祖母はソファの上で起き直っていた。
花盛りの彼女のこの家は、ある意味周囲の空間から隔絶されたような場所ではあったのだが、この夏の日の、辺りをすっぽり包みこむ、人殺しのようなこの夏の日の暑さからは、流石の彼女も、どうやら逃れ切ることが出来なかったようである。
「ごめんなさいね、ヤスコ先生」山岸の家の祖母は言った。「こっちから誘っておいて、こんな格好で」彼女はうすい麻の部屋着を着て、化粧はほとんどしておらず、髪はかるくまとめられているだけだった。「ほんと、年々暑くなるわね」
彼女には不思議な魅力があった。その不思議さがどこから来ているのかは不明だが、それでも彼女は、例えばその辺のこころない人々にさえ、彼女は優しい女性であると言わせるような人だったし、例えばこちらが、無性に泣きたい夜にでも、彼女に会えば、かならずみんなを笑顔にしてくれる、そんなような人でもあった。
そうしてまた彼女は、そんな事柄の代償として、そんなみんなが帰ったあと、彼女ひとりで、みんなの代わりに泣いてくれているのではないか? と、そんなみんなに想わせるような、そんな人でもあった。
「ごめんなさいね、ヤスコ先生」彼女はくり返した。同じソファの、隣の場所を示しつつ、「よければ、近くにすわってくれない?」
ヤスコはそれにしたがった。部屋の中はうす暗く、エアコンの音は聞こえて来なかったけれど、汗が出るということはなかった。
「ああ」と、山岸の家の祖母は言った。ヤスコの顔をながめつつ、うれしそうに、「やっぱりきれいね、先生は。まるでいつかの雪のよう」
ヤスコはわらった。こんな風に言われたのは初めてだったからだ。
「あら、信じてないの?」山岸の家の祖母は訊いた。「嘘や冗談でひとをほめるような人間じゃないわよ、あたし」その冷たい右手を、ヤスコのひたいに当てながら、「でしょう? 不破さん」
ヤスコは驚いた。この家に他にひとがいるとは想っていなかったからだ。すると、
「それはもちろん」と、その声の主――赤い肌に黒いあごひげの男性――が、彼女たちのうしろに現れた。「嘘や冗談は、私の専売特許ですからね」
男性は続けた。驚いているヤスコを無視する形で、
「サキ子さんには、難しいでしょうな」それから、冷たい紅茶とお茶菓子を、ソファの前のテーブルに置いて、「あなたは、本当のことしか言えませんから」
「ほらね」山岸の家の祖母はほほ笑んだ。男に下がるよう合図して、「ほんとにキレイよ、ヤスコ先生」
ふたたびヤスコは苦笑した。彼女のことばが本物だったとして、そのことを彼女自身が信じられなかったからだ。
「あら、まだ信じないのね」彼女は続けた。ヤスコの手や、肩にも触れつつ、まひろがどれだけ彼女のことを好いているかを説明し、「それだけでも、十分な証拠でしょ?」とわらい、それから、
「それにね、これはね、ホント、悪かったとは想っているんだけどね」と、これもヤスコに魅力がある証拠なのだと前置きした上で、「昨夜のね、鷹士のね、ことなんだけどね」と、彼女の孫のひとりが働いてしまったヤスコへの非礼について、「ほんとね、あの子にはね、昔からね、手を焼いているんだけどね」そう言って、ヤスコに詫びた。まっ白な頭を、膝のあたりにまで下げながら。ヤスコは驚いた。ふたたび。
「え?」と、つい声を上げてしまいそうになった。
昨夜の事故――彼女はそう処理したかった――は、自分と鷹士を除けば、南子しか知らない話である。鷹士が自ら話すとは想えないし、まさか南子が――?
「あ、いや、ちがうのよ、ヤスコ先生」山岸の家の祖母は言った。顔を上げて、「鷹士も、南子ちゃんも、もう、なんにも、憶えていないの、なんにも」
「え?」ヤスコは訊き返した。今度は本当に、声を上げて、「いま、なんて?」
しかし、この問いに山岸の家の祖母は答えなかった。代わりに、
「そんな、まひろの悲しむようなこと」そう彼女は言うと、ほそく、ながく、節くれだった、まるで魔法使いのようなその指先を、ヤスコのひたいと両頬、それに両方の耳へと当てた。
「本当にキレイよ、ヤスコ先生」彼女の背後の壁に、いくつもの写真が飾られているのが見えた。「まひろのためにも、先生にはキレイなままでいて欲しいの」
その壁の写真は、山岸の祖母が知っている、知っていた、ほとんどすべての人たちの写真だった。
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わかくうつくしい男性たち。
あどけなさの残る少女たち。
学問に身を捧げた大学教授。
本の中で命を終えた研究者。
舞台役者と女ばかりの聖歌隊。
手足と尊厳を失くした帰還兵。
仕合せそうな夫婦。
志ある実業家たち。
壁の写真はどこまでも広がり、
彼女の想い出も、
それに合わせて増えていった。
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彼らはきっと、彼女とすでに別れたか、いずれ別れることになる人たちなのだろう。彼女には、それが哀しく、我慢ならなかった。だれ一人、なに一つ、失くしたくはなかった。
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こわれたレコード。
色あせたバラ。
古い映画のパンフレット。
クレパスの似顔絵。
汚れた教科書。
しり切れトンボの日記帳。
とおくの花火。
あおいビー玉。
くるくるまわる望遠鏡。
あさの食卓。
少女の鼻歌。
寝ぼけまなこの友人達。
いつかの息子が、
作ってくれた、
シロツメクサの花飾り。
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きっといつかは、彼女のいなくなる日もくるだろう。
そうしてそれは、彼女を知る世界の人々、彼女の世界の人々が、彼女の不在を嘆く日になるのかも知れない。
彼女の愛した、花盛りの家をも、同時に、想い出しながら。
そうしてそれから、いつかは、この花盛りの家の花たちも枯れ、記憶はうすれ、ちいさな庭に、青い木の実の咲く日もあるかも知れないが、それでも突然、ある日突然、彼女のことを、誰ひとり、おぼえているひとが、誰ひとり、いなくなる日が、来るのかも知れない。
そうしてそれは、いつかきっと、我々が想っている以上のはやさで、訪れてしまうのかも知れない。彼女が、それに対して、なんの対策も、しないのならば。
「本当にキレイよ、ヤスコ先生」
みたび、山岸の家の祖母は言った。ヤスコはもう、わらうことも、おどろくことも、出来なかった。
「まひろのためにも、」
山岸の家の祖母は続けた。ヤスコは、無数の壁の写真の中に、彼女の母親の写真を見つけた。
「先生には、ずっと、キレイなままでいて欲しいの」
いまの母と変わらない、わかいままの、母の姿だった。
(続く)




