表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
76/145

第八話:砂時計(その5)

 奇妙なことに、その家の飼い猫は彼女のことを識っていた。彼女がこの家で暮らしていたのは遠いむかし、しかもその一時期だけであったにも関わらず、それでも。


 きっと、この家の場所の記憶、あるいはその猫の身体の記憶というものの中に、彼女の過去は刻み込まれていたのだろうし、あるいは単純に、彼女の持つ遺伝子と、この猫の主の持つ遺伝子の間に、共通点が多かっただけなのかも知れない。


 が、しかし、いずれにせよ、彼女の方に、その飼い猫についての、少なくともその外見についての、記憶はないので、彼女のその白いサンダルの先に、彼女 (この家の飼い猫はメスだった)がすり寄って来たときも彼女は、


「あら、どしたの?」


 そうほほ笑み訊くだけであって、とくに抱き上げることもしなければ、久闊を叙して頭をなでるようなこともしなかった。ただ、


「ひょっとしてあなた、このウチの子?」


 と言いつつ彼女――柳瀬ヒトミ――は、この白い壁と、薄い緑の屋根を持った家のベルを鳴らすのであった。


 ピンポーン。


 青のサマードレスに日傘を差したままの彼女は、先ほど小さな丘の下から見上げた、花盛りの家に似た印象を、この一軒家からも感じ取っていた。


「ほんと、変わってないわね、ここも」


 ところどころに補修のあとやさび付いた郵便受け等が見え隠れはするものの、この家の全体的な印象――それは近所の風景も含めて――は、彼女がこの家を出て行った、逃げ出して行った、数十年前と、なんら変わらなかったからである。


 トタトタトタ。


 と、家の二階から、人の動く気配がし、彼女はその奇妙な感覚――新旧の時間が転倒するような既視感――を、一旦わすれることにした。それでもかなり、無理矢理に。


 トタトタトタ。


 と、家の中の気配は階段を下り、彼女――柳瀬ヒトミ――は、少なくない後悔をしていた。


 たしかに。あの花盛りの家を見、この昔の住み家に立ち寄るべきだと考え、実際ここまで来てしまったのは自分だが、それでも、それに付随するひとつの大きな問題点――彼女の実の娘との再会――にどう対処すればよいのか、その方策も覚悟も、いまだ彼女は決めかねていたからである。


 連れのふたりには、取り敢えず黙っているよう言ってはみたが――、


「あの、」と、うしろでサラが訊いた。この家の飼い猫を抱き上げ、ヒトミの横に立ちながら、「このお宅ってひょっとして、」と、ここで、


「はーい」その言葉を遮るように声がした。こちらは、玄関のドアフォンから、「どちらさまでしょうか?」


 途端に、ヒトミは胸をなでおろした。その声は、彼女の娘のものでなかったからである。彼女は続けた。


「私、柳瀬ヒトミというものですが、」それでも言葉を選びつつ、「樫山……昭仁さんはご在宅でしょうか?」


「え?」相手は応えた。すこし戸惑いながら、「こちらに、昭仁という方はおられませんが」


 この言葉に、ヒトミもすこし戸惑った。が、いやいや、あれから数十年、ない話ではない。


「こちら、樫山さんのお宅ですよね?」ヒトミはくり返した。


「あ、はい」相手も応えた。まるで少年のような声で、「それはそうですが――」


「それでは、」ヒトミは続けた。それでも、それを躊躇うように、「樫山……ヤスコさまは、ご在宅でしょうか?」


     *


「すみません、お待たせしてます」


 それからしばらくして、ヒトミたち三人は、樫山家のリビングにいた。この家の飼い猫のフェンチャーチと一緒に。


「ヤスコさんには繋がらなかったんですけど、詢吾さんがもどって来てくれるそうです」


 と、リビングの入り口から彼らに声を掛けるのは、この家の居候というか、先日住み始めたばかりの、山岸まひろであった。


「詢吾くん?」ヒトミが訊いた。彼女にじゃれ付く、フェンチャーチの頭をなでながら、「あの子、結婚したんじゃなかった?」


 が、この質問にまひろは、「あー」と言ったまましばしフリーズ、言葉を探し出したので、


「あー、はいはい」とかるい口調でヒトミは応答、「いろいろあるよね、人生だもん」と、この話題は受け流すことにし、それから、


「でも、突然ごめんなさいね」と、床に置かれた段ボールに話題を移すことにした。「なんか、お忙しいところ」


 リビングの一部を占拠しているこれらの段ボールには、几帳面な文字で送り状が貼られ、届け先の住所はここ樫山家、届け先の氏名は、依頼主と同じ「山岸まひろ」であった。


「しかし、ヤスコもやるわよね」ヒトミは言った。まひろの顔をジイッと見つめ、それでもすこし、言葉を選んで、「こんないい人、見つけるなんて」


 山岸まひろは本日、残っていた引っ越しの荷物――と言っても段ボール数箱分だが――と部屋の片づけをするため、午後の休みを貰っていたのだが、


「じゃ、じゃあ」と、ヒトミの視線から顔をそらすようにまひろは言った。「と、取り敢えず、この荷物だけ部屋に運んで来ますんで」すこし、顔を赤らめながら、「どうぞ、適当にすわって待ってて下さい」


 普段のまひろなら、主人のいない家に無断でひとを上げるようなことは絶対にしないのだろうが、それでもヒトミが、自分をヤスコの母親だと名乗り、またそれが、彼女の声やまとっている雰囲気――レモンや石鹸、朝食用のシリアルを想い起こさせるような、あの雰囲気――から、まひろにも実感として理解出来たため、彼らを家に上げることにしたのである。


「かっわいい」つぶやくようにヒトミは言った。顔を赤らめ去ろうとするまひろの姿に、「ほんと、ヤスコもやるわね」と。


 そうして、それから彼女は、ニシナに目で合図を送ると、まひろの荷物運びを手伝うよう言った。


「あ、いいですよ、お客さんにそんなこと」と、ふり返りながらまひろは言うが、


「いいのよ、気にしなくて」と、ヒトミは応えた。「こういう時の男手なんだから、他にもあれば使ってやって」


「なんか、すみません」まひろは続け、


「いいってことよ」ニシナも応えた。着ていた上着を脱ぎながら、「ヒトミさんの娘さんの彼氏さんってんだったら、俺にとっても…………あれ? なんだ?」


 階段からわらい声が聞こえた。


 そうしてそれはしばらく続き、それが消えるのに合わせるように、


「すみません」とサラがヒトミに訊いた。すこし、戸惑った様子で、「あの、彼氏さ……ん? なんですけど」


「え? ああ、気付いた?」とヒトミは応え、


「え? あ、まあ……、私も……、その……、アレですから」とサラも応えた。それから、


「ま、それはね、ひとそれぞれですからね」そうヒトミは言うと、「変な詮索はしないで――」そう続けようとして、


「あ、いえ、ではなくて」と、サラにそれを止められた。「名前の方です」


「名前?」


「ええ。」サラは続けた。スマートフォンの地図をヒトミに見せながら、「“山岸”って、例の家と同じ名字ですけど」床に残った段ボールを指差しながら、「偶然? ですよね? ただの」



(続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ