第八話:砂時計(その1)
その女性はかつては、界隈一の美人と言われ、実際、幾人もの男性の愛情を勝ち得て来たし、その心臓を撃ち抜いて来たとも言われていたのだが、それは多分事実だろう。
彼女の瞳は愛らしく、目鼻立ちは整っていた。
着る服の選択肢は年々狭まって来てはいたものの、それでも、生まれながらのきれいなスタイルを保っていることは、誰の目から見ても明らかだった。
彼女のことを、未だ三十代だというものもいれば、すでに六十才を過ぎているというものもいたし、いや、彼女は永遠の若さを手に入れたのだ――と考えるものは流石に口を閉ざしていたが、それでも、要するに彼女は、年齢を超越した美しさを誇っていた――と考えておいて頂ければ、まああながち、物語的には外れてはいないだろう。
*
金曜日の朝、早めの朝食をすませた彼女は、お供の若者ふたりと、とある事務所に向かうため、階段を上っていた。
お供のひとりは生意気な顔をした馬面の青年で、屈強とはいい難い体格をしていたが、彼のその口は、ひとたび動き始めれば、どんな紳士をも淑女をも怒り狂わせるほどの能力を持っており――彼は悪口の天才だった。
そうして、そんな馬面顔の青年は、いま、彼女の前を、スーツケースを持って歩いている。
「しっかし、今日も暑いですね」そう言うと彼は続けて、「こんなに暑いと――」
と、ここに書くのも憚られる隠語・スラング・隠し言葉の類いを巧みに使い、天の神さまだかお天気の女神さまだかへの皮肉・冷笑・罵詈雑言を語りに語ってから、
「もう少し、涼しそうな格好は出来ねえのかよ」と、彼と彼女のうしろを歩く若い女性に声を掛けた。「見ているだけで、汗がふきでる」
声を掛けられた若い女性、彼女は、中国人とスペイン人を掛け合わせたような目鼻立ちをしていたが、ぴんと伸びたロープのように歩く女性で、この連日の暑さにも関わらず、着ているものと言えば、上下とも黒のスーツに紺のYシャツ、そのボタンはすべてとめ、そこに、それとは不釣り合いな黄色のネクタイを締めていた。
「すこしはヒトミさんをみならえよ」馬面顔の青年は言った。彼のうしろを歩く女性に、ふやけた笑顔を見せながら、「今日もおキレイですよ、ヒトミさん」
「そう?」女性は答えた。年齢を超越したような、若々しくもあり熟し切った果実のようでもある声で、「ニシナくんも、なかなかきまってるわよ、今日は」
ヒトミと呼ばれた女性は、うすいブルーのサマードレスに白いヒールのサンダルをはき、首にはちいさな真珠のネックレスを着けていた。
彼女の身体は、冒頭にもすこし触れたとおり、生まれながらのきれいなスタイルを保っており、上品に細く、また、女性らしさを示すだけのふくらみも十分に備えていた――ことは、ニシナ青年の、このふやけた笑顔からご推察頂ければよいだろう。
が、ただしかしこれは、このニシナ青年もはっきりと認めるところではあるだろうが、彼女の本来の魅力というようなものは、そういった女性らしい服装やふくらみというよりは、彼女が生来持って生まれた雰囲気、レモンや石鹸、それに朝食用のシリアルや買い忘れたミルクを想起させるような、そんな雰囲気にこそあり、青年も特にそこに惹かれていたのである。
そうして、だからこそ青年は、こんな暑く面倒な夏の日にこそ、うしろを歩く (便宜上は取り敢えず)相方である女性に、ヒトミのそんな清々しい雰囲気を、「みならえよ」と言ってしまったワケである。
が、まあ、これはそもそも、少々無理のある要請であったワケだが。
「でもね、ニシナくん」と、淡いサングラスの向こう側でヒトミは言った。口は大きく、鼻は上を向いていた。「サラちゃんだってきまってるわよ、今日もね」
それから彼女は、階段の途中で立ち止まると、まずはうしろをふり返り、サラと呼ばれた若い女性に向かって、「ほんとよ」と言ってほほ笑んだ。「いつもクールだなって想ってるもの」
この言葉にサラは――彼女の両目もサングラスに隠れて見えなかったが――両の頬を染め、照れることになった。少女時代は過ぎていたが、まだ女にはなっていない、そんな表情だった。
「ただ、暑かったら、いつでも脱いでいいからね、上着」ヒトミは続けた。「なんなら私が、預かってあげてもいいし」
すると、この申し出にサラは無言でうなずき答え、ヒトミも「ね?」と言ってわらって返すと、今度はニシナの方を向き、「凸凹コンビもいいけどさ」と、彼にいくつかの助言と忠告を与えた。
凸凹コンビもいいけれど、結局、腕っぷしでも早さでも、サラの方が上手なワケだし、「女の子にやさしい男の方が好きかな、私は」。
それに、きっとそれが、君の強さにもつながるだろうから、と。
この助言と忠告にニシナは、敢えてサラから目をそらし、曖昧な返事で頷いた。
そうしてそれから三人は、ふたたび階段を上り始めると、目的の事務所の前まで行き、そこのインターホンを押した――が、返事はなかった。
「あら?」とヒトミがつぶやいて、もう一・二度インターホンを押した――が、それでもやはり返事はなかった。
そのため次にはサラが、すこしいらだった様子でドアをノックした――のだが、もちろんそれにも返事はなかった。
「どうします?」ニシナが訊いた。
「どうしましょう?」ヒトミも訊いた。サラの方を向きながら。
「私でよければ、」サラは応えた。つぶやくように、「カギを開けられますが?」短いなめらかな髪に刺しておいた、二本のヘアピンを外しつつ、「どうします? ヒトミさん」
(続く)




