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間奏:ハト/平野/塩の柱(その7)

 ビジ、ビジジジジ、ジジ。


 シルバーのスマートフォンから、本来なら出るはずもないような音が聞こえた。それでもちいさく、周囲1mのひとに聞こえるか聞こえないくらいの範囲で。


「うん?」杏奈ジアは言った。スマートフォンの画面に現れた、奇妙な波形と色彩を確かめながら、「本当に、ここの位置でいいのか? ニア」


「たぶん」と、杏奈ニアは応えた。姉のスマートフォンをのぞき込み、歪んだたまご型のその波形に、「あと、その辺にもふたり」と言って、青と緑のベンチ――の横の地面を指差しながら。


 ここは、彼女たちの住む東石神井台の駅のホーム。先ほど奇妙な男あるいは三人組とニアが言葉を交わした、そのベンチの前である。が、ここでこんどは、


 ジ、ジジ、ジ、ジ、ジ、バジ。


 と、先ほどとは微妙に異なるソニックパルスが、杏奈ジアのスマートフォンから聞こえて来た。彼女は今度は、ベンチそのものではなく、ニアが指差した床のあたりを、スキャンしているのである。


「どう?」ニアは訊いた。


「うーん?」ジアは応えた。しばしの間、口をアヒルのように尖らせて、「いや、まったく、これと言って変わった様子はない」


 それから彼女は、それでもしばらく、画面に映った、歪んだ三個の波打つ卵をながめていたが、


「うん」と自分を納得させるようにつぶやくと、「まったく、全然、変わった様子はないな」それから、「まるで、そもそもそこには、誰も何もなかったかのように、普通だ」


 そう続けて、そのシルバーのスマートフォンを、上着と同じ、紺色のショートパンツへとしまい込んだ。「きっと、夢でも見たんだろう」


 が、それから彼女は、自分の言った言葉に自分で引っ掛かったのだろうか、「お前も、夢を見るのか?」とニアに訊いた。


「あ、ひっどーい」ニアは応えた。すこし怒って、「それって差別よ、人種差別」


「あ、いや、すまない」ジアも応えた。謝罪するような、身振り手振りで、「単純に、疑問に想っただけなんだ」


「もちろん見るわよ」ニアは続けた。「ジアの夢だって見るし、お姉さまや詢吾さん、千佳子さんの夢や、羊の夢だって見るわよ」


「羊?」なぜか、妙なことばが出た。ジアは訊き返した。「なぜ? どんな羊だ?」


「羊は羊よ」ニアは答えた。「いーっぱいの羊。それがみんなしてどっかへ行こうとしているの、雨の中を、電車に乗ったり、桟橋を渡ったり」


「雨?」ジアは考えた。ニアの中に、そんな夢を想起させるような記憶があっただろうか?


「あ、でも、そうそう」ニアは続けた。まるで、雨の中のなみだでも、想い出したかのように、「その中に一匹だけ、全然ちがう方向に走り出す? 飛び出す? 羊がいるのよ。なんだかとっても、想い詰めたような、そんな表情で、こっちをふり返りながら」


 すると、そう語る妹の顔に、杏奈ジアは、不思議なものを見付けた。


「お、おい、ニア」とっさに、鞄の中から、一枚のハンカチを取り出していた。「どうした? 大丈夫か?」


「え? あれ?」ニアは応えた。自分でも気付かぬまま、「え? うそ? やだ?」姉のハンカチも受け取らないまま、「え? やだ、なんで?」彼女は、涙を流していた。「なんか、急に、え? やだ、ウソ」


 涙は止まらなかった。それは彼女が朝の四時に見る夢、目覚めの直前に見る悪夢とほぼ同じ風景だったから。


「なんで、私、涙なんか……」


 が、しかし、こんな記憶や想い出も、きっといつかは、時間と――いや、時間そのものと一緒に、いつかはきっと、消えることにもなるのだろう。


 そう。


 それはまるで、雨の中の、なみだのように。


     *


 ハッ。

 と、一度つよく目を閉じてふたたび開いた。

 雨の中の涙は、いまだ枯れてはいなかった。

 彼女は今、ある街のある通りに立っていた。

 そこはまるで、見たことのある通りだった。

 とおりのさきに、ちいさなカフェが見えた。

 あの人と一緒に来た、小さなカフェだった。

 リンゴとシナモン、の記憶がよみがえった。

 彼女は歩き出した。雨の中の涙を拭きつつ。


     *


 カラン。

 と、小さなカフェの扉のカウベルが鳴った。

 カフェは静かで、前の時よりうす暗かった。

 カウンターに男が三人、珈琲を飲んでいた。

 奥のテーブルが空いていて、そこに座った。

 窓際席には一組の男女。お喋りが聞こえる。

 コーヒーをはさんで、なんだか楽しそうに。

 決まりましたか?注文。なににしましょう。

 しばらくして、ウェイターが彼女に訊いた。


     *


「しかし、今日も暑いですね」とウェイター。

「あ、あの」彼女は言った。「リンゴのパイ」

「パイ?」ウェイターは訊く。「リンゴの?」

「たしかここの」彼女は続けた。「名物だと」

「あ、まあ」ウェイターは応えた。「それは」

 が、ここですこしの、奇妙な沈黙が降りた。

「でも少し早いですよ」ウェイターは続けた。

「はやい?」彼女は訊き返した。「でも先週」

 が、ここでふたたび、奇妙な沈黙は降りた。


     *


「あ、いえ」少しの間を置き、彼女は続けた。

 すこしうわずった声で、「それを、ひとつ」

「飲み物は?」蛙に似たウェイターが訊いた。

「紅茶を」彼女は答えた。あの人と同じ物を。

 あの人と、おなじ物を。「つめたい紅茶を」

「もうね」彼女のこえ、が聞こえた気がした。


「ここのアップルパイ食べたらね、

 ほかのところのアップルパイなんかね、

 なんて言うの? “パイ”ね、ただの“パイ”」


     *


 パイと紅茶が運ばれるまでの短いあいだ彼女は、

 ここで、“あの人”と交わした会話を想い出そうとしていた。


 リンゴとシナモンの仲の良いかおりが、このテー

 ブルに届くまでの短いあいだに、想い出せるだけの事を、と。


「どうぞ、おまたせ」蛙顔の、だけれど愛想のよい

 ウェイターが言った。「アップルパイと紅茶のセットです」


「ありがとうございます」そう言ってから彼女はパ

 イを切り始めた。“あの人”の切り方を、想い出しながら。


 パイをひと口、くちに入れた。リンゴとバターと

 シナモンの仲のよい味と香りが口のなか一杯に広がり彼女は、


「ごめんなさい」とつぶやいた。先ほど拭いたはず

 の、止めたはずの涙が、ふたたび、流れそうになっていた。


     *


「ごめんなさい」

 彼女は続けた。誰にも聞こえないよう、特にこれを運んでくれたウェイターの耳には、けっして届かないようにと、十分気を付けながら。しかし、それでも、


「ごめんなさい」

 彼女は続けた。フォークを皿へと戻し、二度と、持つことが出来なかった。


「ごめんなさい」

 ここでも彼女は気付いてしまった。その、パイの味から。

 ここも、彼女がいた世界とは、また別の、まったく別の、世界なのだと。



(続く)

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