間奏:ハト/平野/塩の柱(その6)
さて。
ある宇宙のある世界のある物語によれば、ソドムとゴモラの街が焼き尽くされたとき、そこにいたのは悪い人たちばかりであった。
そうしてそのため、そのふたつの街が焼き尽くされ、破壊し尽くされ、人々が燃やし尽くされたとき、その様子を見ていたひとりの天使はこうつぶやいた――とされる。
「これで世界は、すこしはよくなる」
たしかに。
彼のこの言い分には、一理あるのかも知れない。世界は、悪人で満ち溢れているのだから。
が、しかし私は、あるいはこの物語の登場人物の何人かは、この言い分に異を唱えるように想う。「そんなことはないだろう」と。
そう。
それは例えば彼女、杏奈ニアがそうであったように。
*
「バッカじゃないの」
と彼女は言った。これもまたある宇宙の、ある世界の、ある東京都東石神井台において――「たしかに」
たしかに。私の知り合いにも、世界を、宇宙を、すべての宇宙を無かったことにしようとした人はいたけれど、あれは結局、彼女の孤独の裏返しでしかなかったワケだし、それも結局、失敗に終わったではないか (注1)――というか、それよりなにより、
「その街にもきっと、いい人たちはいたはずでしょ?」彼女は続ける。「子どもとか、お母さんとか、気のいい食堂のお兄さんとか」――そんなひと達もまとめて焼き尽くしてしまったの? 「頭悪いんじゃないの? そのひと」
昼間の駅のホームにひと影はまばらで、日差しは強く、しろい小さな日傘を差しながら彼女は、姉と電車の到着を待っていた。青と緑のベンチにすわって。彼女の横で男が言った――「しかしお嬢さん、彼らの」
「しかしお嬢さん、彼らの叫びは大きく、またその罪も重かったのです。それも、非常に」
男は三人。それぞれちがう色のシャツを着ていたが、杏奈ニアの隣にすわる男はサテンの白生地。のこりのふたりは、ベンチに座らず立ったまま、シャツの色は、あわいブルーと、朱の混じった奇妙な黒だった。白いシャツの男は続ける。
「そうして彼らは、届いた叫びの通りかどうかを確認し、それからその街を焼くこ――」
「だーかーらッ」杏奈ニアは言った。男の言葉をさえぎるように、「そんな何万人も何十万人もいるひと達ひとりひとりの善悪なんか簡単に確認出来るわけないでしょ?」と、強い口調で。
すると、この彼女の態度に怒りを感じたのだろうか、不服を感じたのだろうか、奇妙な黒いシャツの男が、スッと一歩、彼女の前に進み出ようとした。が、しかし、
「ではもしも」と、白いシャツの男は続けた。黒いシャツの男に、それ以上ニアに近付かないよう咎めながら、「ではもしも、何十万人ものひと達ひとりひとりの善悪を確認出来ていたのだとしたら?」
「出来たわけないわよ、そんなの」杏奈ニアは応えた。
「どうして?」白いシャツの男は訊いた。
「本当に出来たのなら、滅ぼしてるはずがないもの」杏奈ニアは続けた。スカートの裾を直し、背筋を伸ばし、ベンチにも座り直しながら、「それともなに? 例えば五十人なら五十人のいい人たちがいたとして、その人たちも一緒に灰に変えちゃったわけ?」
「いいえ、それは」男は応えた。ずうっと昔の記憶を辿りながら、「五十人もの善き人々がいたのなら、街は焼かれなかったでしょう」
この言葉にニアは、すこし言葉に詰まった。日傘の位置を変え、人形のようにちいさな鼻を、すこしつまんだ――「それってつまり」
「それってつまり、五十人もいなかったってこと? いい人が?」
男は応えた。声には出さず、固く閉じた口と、かなしげな目の表情だけで。ニアは続けた。
「何人くらい欠けてたの? 五人とか? 四十人くらいはいたんでしょ?」
男は応えた。ふたたび。固く閉じた口と、かなしげな目の表情だけで。
「三十人?」ニアは訊いた。
男は応えた。沈黙の表情で。
「二十人?」ニアは訊いた。
男は応えた。ゆっくりと目を閉じ、ゆっくりと首を、横にふって。
「十人は?」杏奈ニアは訊いた。「さすがに、十人くらいはいたんでしょ?」
男は応えた。閉じた目のまま、彼女の手に触れ、こんどは、声に出して――善人もいつかは、悪人に変わるのですよ、お嬢さん――「そうして」
「そうしてあの地に、十人もの善きひとがいたのなら、あの街はきっと、焼かれずにすんだでしょうね」
この答えにニアは、すこし戸惑い、彼女が経験した星々の消えた宇宙、絶対的な恐怖、絶望的な断絶感、そんなものにちかい何かを、白いシャツの男から感じ取ったのだが、それでもすぐに、かたく両目を閉じるとすぐに――「オッケー、いいわよ、十人ね」
「オッケー、いいわよ、十人ね」と彼女は言った。「十人いれば、その街は焼かれずに済んだのね」
男は応えた。今度も、声には出さず、しかし目はひらいて、哀しむような、憐れむような、そんな表情をして。すると、
*
パァーンッ。
と、どこかでなにかの、開くような閉じるような、そんな音がして、
*
「どうした? ニア。そんな真剣な顔をして」
と、彼女の姉の杏奈ジアが、彼女に声を掛けた。手に、ふたり分の飲み物を持って。
「え?」
杏奈ニアはつぶやき目を開け、周囲を見回した。
が、昼間のホームにひと影はまばらで、日差しは強く、そこにはすでに、男たちの姿は見えなかった。
(続く)
(注1)
樫山泰士製作の長編SF『時空の涯の物語』において、杏奈ニアの製作者であったミセス・パンドラ・エンドラ・ホワイトが起こした事件、所謂 《全宇宙崩壊消滅未遂事件》のことを言っている。
なにかと謎の多い杏奈姉妹の素性とヤスコたちとの出会いについては、あちらの物語に詳しく書いておいたので、気になる方はそちらを読んで頂くこととして、一応ザクッと説明だけしておくと、杏奈ジアと杏奈ニアは実の姉妹ではなく、ニアは、ジアの遺伝子を元に創られた機械――ヒト細胞レベルのナノマシンで組み立てられた人工機械――であり、その元となったジアはジアで、地球人類ではなく、別の惑星出身の宇宙人だったりするし、というかそれ以前に、もともと彼女たちがいたのは、ヤスコたちのいるこことは違う、また別の宇宙だったりする。




